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平成21年度 第3回 Q&A
第3回 2009年8月6日(木)
新聞記事の科学面はどのようにつくられるか?
科学ジャーナリズム
中村 雅美(国立情報学研究所 特任教授、江戸川大学教授、日本経済新聞社編集委員)
講演当日に頂いたご質問への回答(全31件)
※回答が可能な質問のみ掲載しています。
情報伝達に必要な要件にあるFactの検証はどのように行うのか?
科学ではないが、松本サリン事件に代表される前例が多くある。科学も絶対ではない。それまで正しいとされていた理論がくつがえることも多々ある中で、「これが正しい」と判断できる基準となるものを、どのようにして形成するのか?
根本となることを分かりやすく説明していただけますか?
検証は記事審査部や編集会議、編集部長会議(編集局長が招集、毎日行う)等が行っています。また、「基準」と言えるものはありませんが、科学的に間違いがあってはいけませんので、(科学)担当者、科学技術部長・次長などが常に連絡を取って正しい情報を把握しています。
携帯電話の電波でペースメーカが誤作動するから"エチケットゾーンでは使用禁止"は本当か?
ペースメーカ使用者は携帯が利用できないことになるが正しくないのでないか?
人の迷惑にならないマナーを守ることは賛成だが、事実とは異なる理由を基にしたキャンペーンは納得できない。これを正すのはジャーナリストの役割だと思う。
使用禁止"は厳密にいえば(科学的には)正しくはありません(院内で使用を認める病院が増えています)。ただ、おっしゃるようにマナーを啓発する意味では良いことだと(私は)思っています。どれだけ注意しても、まだシルバーシートで携帯電話を使っている人がいます。社会的にも最低限のエチケットは必要だと思っています。
「GM作物から採れた食物は有害である」との風評を作り出し、未だにその誤りを正さないのは、科学ジャーナリズムの落ち度ではないか。四足動物の肉を食べると獣になるとの前近代なへりくつと同じ考え方を押しつけている。
科学ジャーナリズムでは「GM作物は有害である」という風評を広めたとは思っていません(いろいろな懸念があるということは言っておりますが)。
たまに社会面などで"とんでもない"説明などがあるが、科学面の担当者との交流や査読などはないのでしょうか?
査読を行っていません。ただ、重要な問題については社会部等と科学技術部との連絡を密にしていますし、時折勉強会(外部の講師を含む)を開いて科学的な意識をもつようにしています。
重要な意味を持つ報道が記事となって紙面に出る場合、新聞社内部で、その正確性・影響度などを様々な面から十分に検討しているか?
また上記の報道が、不幸にして誤った点が多かった場合、どのようにして是正されるのか?
勿論、受容者の知識能力が大事ではあるが、大方、ふり回される結果となっている。
どの程度十分かは分かりませんが、いろいろな面から検討はしています。誤った記事がでた場合には、(数字など)明らかな誤りであれば訂正します。ただ、事象をどうみるか、どう解釈するかなどについては訂正をしない場合があります。また、訂正まで行かない場合でも、次回に同じような記事を掲載する際に分かるように正しいものに置き換えることもあります。
「環境ホルモン」など、その後どうなったか、フォロー報道がないのはどうしてか?ある時期集中的で、その後問題として残っているのにパタンと止まることが多い。
いわゆる環境ホルモンの影響をうたって環境省の「SPEED98」がその後一部否定されていることは事実です。報じた記事があったかと思いますが、単発で小さかったように思います。問題が生じた時に集中豪雨的に報道するというのはマスコミの通弊として少し是正しなければと思っています。
メディアがこれまでに「予警責任」を果たした事例は?
探しましたが、その範囲ではありませんでした(日経新聞のみ)。
メディアによる正確な情報伝達は必要であるが、読者の理解力を向上させるのも重要ではないだろうか?
その場合、どうすれば理解力を上げる事ができるだろうか?
教育(科学・技術教育)が一番大切だと思っています。今の教育は知育に偏重しており、科学・技術(生きていく、生活するための)教育は不十分だと思っています。
マスメディアは、〔F×T×S+L〕を必要要件としてチェックされる仕組みとなっているはずですが、今日のインターネットによるWeb情報は、ジャーナリズムの使命をチェックする仕組みが必要と思いますが、現状は?
実情はよく分かりませんが、web情報は内部の人による検証が余り無いと聞いています。ジャーナリズムの使命を喚起する何らかの仕組みが必要かと考えますが、良いアイデアはありません。
最近は、Wikipediaが市民、学生に広く使われていますが、これをどのように評価されますか?また記事執筆上どう取り扱われますか?
Wikipediaは玉石混淆であり、記事を執筆する上で参考にすることは余りありません(全く参考にしないというわけではありませんが)。評価は分かれます。
資料P16の中の(専門家と非専門家の間にある)情報の非対象性の解消とあります。この「非対象性」の表現に理解しづらい感じをもつのですが、一般的になじんだ言葉ですか?
「情報ギャップを埋める」程度に言っていただくとすーっと理解できるのですが、如何でしょうか?
「情報の非対称性」という語は確かに人口に膾炙されていないかもしれません。もっとわかりやすい言葉を使うべきでした。
薬学を専攻されたのでお聞きします。
最近は西洋医学の限界が言われ、伝統医学(東洋医学や代替医療など)が復活?している気配があります(特に米国などでは)国家予算も拡大しているようです。日本では殆ど取り上げられないようですが、それは何故ですか?政府や業界(製薬その他)の思惑があるのですか?実情を教えてください。(報道してください)
伝統医学は欧州(特にドイツ、フランスなどの大陸諸国)、インド、アラビア、中国、韓国などにあります。無いのは米国だけでしょう。だから、米国では民間療法を含めた伝統医学(代替医療)の研究が盛んだとも言えるのでしょう。日本では(中国由来の)和漢薬(=漢方医学、東洋医学)があり、大きなシェアを占めており、報道は日々されているといっても良いでしょう。ただ、明治以来、日本は西洋医学重点に移ったことは事実です。
記者が原則社員であることによるデメリットもあるかと思います。これを挙げるとしたら、その第1のデメリットは何でしょうか?
あえて言えば社の方針に抵抗しにくいということがあるでしょうか(これも、比較的自由=縛りは緩いと考えます)。
具体的に科学面を作る過程を知りたい。科学面を担当する記者はどのような経歴や能力(技術)を持った人がなるのか。研究者とのネットワーク等はどうなっているのか。
科学面の作り方を説明すると長くなりますので、個別にメール(中村:mlg18948@nifty.com)でお問い合わせ下さい。また、経歴は科学部員になる際にはそれほど大きな条件になりません。要は、理知的に考えられるかの点に尽きます。研究者とのネットワークは記者個人の努力が大きいのですが、社(部)として定期的(年に一度程度)に、顔つなぎの意味で研究者を招いてパーティなどを行っています。
ジャーナリズムのキャッチフレーズ好きが、本来複雑、あいまいな"科学"を単純化、図式化しすぎるために、読者の思考停止、判断停止を生み、リテラシーという批判、批評力の発達を阻害している恐れはないだろうか?
他にもジャーナリスト/ジャーナリズムの社会的責任は多方面にあると思うが、これを追求するもの/機関はあるのか?同業/内部のチェック機能に俟つしかないのか?
新聞、テレビなどはスペースが小さいので十分意が伝わらないうらみがあります。このため、善悪、白黒といった二元論的な表現が多くなりがちです。その意味で週刊誌、月刊誌などじっくりかける媒体が必要だと考えています(その意味でWeb情報に期待しています。現在の週刊誌には物足りなさを感じます)。しかし、最近では検証的な、じっくりした解説記事が多くなっています。
報道とは「義務」なのか「権利」なのか?(メディアの立場から視て)
報道は「(知る)権利」の行使です。
公正・公平な報道は、ジャーナリズムの視点で出来事を切りとって行うので、技術的にはできないのではないか。
そもそも扱う出来事のセレクトはメディアの考えで行われるのではないか。
講演でも申しましたが、完全な「公平」な報道は難しいと思います。ただ、できる限り「公平」で「公正」な報道をするように努力しています。ただ、ある程度のセレクトは仕方がないとも考えています。
ノーベル賞を日本人が受賞する際、なぜ業績より科学者個人がフォーカスされることが多いのか?
原子力発電や新型インフルエンザなど、問題がおこるとセンセーショナルな記事が書かれるが、そういった分野にこそ科学知識のある専門家の意見を多く掲載できないのか。
そういうことは少ないと思います。島津製作所の田中さんのケースは例外だと思います。きっと、業績をしっかり(記者が)理解できなかったためと思われます。
先生は大学時代、薬学を勉強していたのになぜ新聞社に入社したのでしょうか。教えてください。
日経スポンサーのWBS(12ch)の話がなく、テレ朝のニュースステーションが先生のお気に入りですか。昔、WBSのキャスターは契約社員でなく、日経社員でなく、日経の宮地主幹?が出ていたと思いますが。
もっと「薬学」のことを一般の方に知ってもらいたいということと、科学への誤解を解きたいということがありました。 また、ニュースステーションは私のお気に入りではありません。一つの例として申しあげたのです。WBSのキャスターはフリーの方(今は小谷さん?)が担当しています。重要な問題が起きた時は日経の記者が解説することがあります(私も以前何度か出たことがあります)。
子供の理科離れが問題になって久しいが、これに対する科学ジャーナリズムの責任はないでしょうか?
大きくは教育の問題があると思いますが、科学ジャーナリズムに全く責任が無いともいえません。
ジャーナリストに必要な資質として資料P.14にある通り、正義感、社会常識、バランス感覚が欠かせないと思います。しかし最近、報道の現状を見るにこれらが欠如しているのではないか。新聞社、放送局等々でこれらに対してしっかりと教育はされているのでしょうか。
正式な教育はありません(多少はあるかとは思いますが、「習うよりは慣れろ」の風潮は依然強い)。
「メディア(新聞)が大きく扱うこと」の1つとして"感情に訴えることから"が多いというお話がありましたが、海外のメディアではどうなのでしょうか?
日本のメディアと海外のメディアとの間に特徴的な違いはありますか?
過去の(日経の)記事を調べたのですが、多くの媒体は日本と変わらないと思います。ただ、理性的、分析的な記事が多いことは確かです。
大手新聞の科学報道が十分に役割を果たしているか。(最近では、ネットの解説の方が詳しいように思えるが)
いろいろな問題を抱えつつ、科学報道は使命を果たしていると思っています。
科学面に載せるものを選ぶ基準は?
大学や研究所等で毎日たくさんのさまざまな研究がなされているが、その中でどれをピックアップするかを決める基準は何ですか?
基本的に、記者個人に任せています。独自のノウハウ、取材ルートがあるのでしょう。
実は本当のことが書けないということが有ると思うのですが、どんな時ですか?
たとえば外交に関係することとか。明らかに消されている事件記事があると思っています。
科学面ではそういうことは経験していません。
資料P7 2年前の中越沖地震の際、3号機の変圧器火災の黒煙が延々と放映された事実があるが、原子力の不安をあおるだけであったと思う。電子力の安全(放射能)と如何なる意味があるのかを説明すべきではないか。
講演でも申しあげたことと思いますが、「安全」は当たり前です。ジャーナリズムの使命の一つはそれがいかに「危険」な側面を内蔵しているかを啓発することだと思っています。もちろん「安全」を記事化する必要はありますが。柏崎・刈羽原発の黒煙は確かに行き過ぎでした。メディアの中には(主に新聞)反省している声が強い。
同じ情報が各紙で異なる日に記事にされることが、よくあります。これは他紙を参考にしているからでしょうか?
あるいは、科学記事は紙面の穴埋めにされているからでしょうか?
その日に掲載しなければならないニュースもありますが(一刻を争うニュース)、他の日に科学面で扱えばよいというものがあります。その辺は記者、社内のデスクの判断が効きます。決して穴埋めではありません。
人材育成はどのようにしているのか?(T型)
特に社員教育はありません。記者個人の自覚が大切です。
メディアとはいえ、営利事業。スポンサーに対して、タブーは存在するか?
日本のメディア、特に新聞は、外信部を除いて匿名性なのはなぜか?
メディアが強力になり過ぎて、保守的な傾向に流れていて危機感を感じているか?
科学ジャーナリズムの限界を感じているとしたら、どう対処するのがベストか?
タブーはありません(といっても多少はあります)。匿名なのは社員記者が書くからです(責任は社がもつ)。海外特派員の名前はいずれ無くなると思いますが(昔は国内の地方発の記事にも筆者の名前が掲載されていました)、海外通信社電と区別し、自社の記者が書いている(責任は全面的に社がもつ)ということを明確にする意味で(名前の掲載は)残るかもしれません。
日常と科学的感覚の差について。科学・技術の分野では(例えば)100[us]と100[ns]の差は重大だが、日常的な感覚ではそれを理解することは中々難しい。しかし、科学技術が進歩するにつれ、科学面を読むだけでなく、重大な社会的選択をする上で、この「差」(ギャップ)は大きな問題となっているように思う。
これまでは、表現の工夫(東京ドーム何個分など)などあったかと思うが、この点で限界を感じられるなどはあるか?
読者にとってわかりやすい記事をということで頭を悩ませています。ただ、下手に「たとえ」を出すと、無用な誤解を与えることもありますので、注意が必要です。
情報伝達に必要な要件の4つの要素のうち、L(理解力)だけが和(足し算)になっていますが、理解力がゼロだと全く情報が伝わらないという意味では、積になっているべきではないでしょうか?
リテラシーが乏しくても、記事は成立します(記事としても価値はあります)。リテラシーが高い方がいいということは言うまでもありませんが、低くてもかまわないと思います。
科学ジャーナリズムは、記事としては取り扱いが少ないノーベル賞とか、分かりやすい記事が大きく取り上げられるが、その他の内容は少ない。科学ジャーナリズムは、人々の関心事としては、弱いのか?
科学報道は、その時は大々的に取り上げるが、継続的に例えば検証に於いて紙面に取り上げにくいものか?
おっしゃるように科学報道は全体的に弱い。ただ、以前に比べれば、ずいぶん科学・医学の記事が増えてきました。人々の科学にかける思いが変化しているのでしょう。
科学ジャーナリズムは、目立つこと面白いことを追いかけて、科学技術の進歩、問題点の予測(自動車の環境に与える影響-過去50年間遅れっ放しにもっと焦点を合わせるべきではないか?
科学雑誌の不振が問題ではないか?
(問題点の予測などを)追いかけている記事が増えています。科学の内容を知りたいなど、科学に関する期待が大きくなっている証左と考えています。
記者の異動は早いと聞いているが、科学的知識に基づく公正、批判、批評は大丈夫なのか。
ベネフィットについて。
知る権利というプライバシーとの兼ね合いは?
若いときにいろんな分野の経験をしてもらう意味で異動は早いと考えられます。でも、一定の年齢、ポジションになれば自分にあった分野をじっくり・・・ということが多いようです。「知る権利」などは記者として最低限身につけるものです。
〔F×T×S+L〕 Lはなくてもいい、というのは少し納得がいきません。衆愚を是とするようにきこえます。世の中の風評被害の土壌ともなるものです。
リテラシーはなくても良いとは言っていません。低くてもかまわないという意味です。言うまでもありませんがリテラシーをもつのはあくまで読者です。
新聞社で科学面を書くにあたって、あるいは読むにあたって必要とされるリテラシーはどのレベルなのでしょうか?
高校理科レベル、大学レベル・・・
媒体によりますが、私たちは高校卒業程度で分かるようにとこころがけています。
資料P68 科学報道の事例 何故 原子力問題か。(何故原子力だけに問題がつくのか)
資料P55 科学部がカバーする分野
2)環境問題・エネルギー問題、人口問題 5)原子力問題 原子力も科学的にはエネルギーであり、5)は政治的問題でないのか。
原子力は解決をしなければならない課題が残っています。そういう意味で「問題」であって、単なるエネルギーだけではありません。ご指摘の通り、政治的な意味もありますが、そういう課題を含めて原子力を特に取り上げています。
今回の臓器移植法改正について、もっと反対的な立場、意見が慎重性をジャーナリズムは訴えるべきではなかったか。公平性はわかるが、明らかに"将来に禍根を残す法"であることをジャーナリズムはリードすべきではなかったか。
脳死・臓器移植については様々な意見・考え方があります。どちらか一方に偏った議論は避けるべきだと考えます(私自身は脳死・臓器移植を認めることには反対しません)。法の改正(改悪?)への反対論は取り上げています(取り上げすぎて、逆に「公平性」を欠いている気がします)。ただ、今回の「法」の改訂には納得いかない点がいくつかあることは事実です。
資料P19にある「はじめよう!科学技術コミュニケーション」は、どのような内容、目次なのか教えてください。
"コミュニケーション"とは何か。なぜ、このようなテーマが科学ジャーナリズムと関係してくるのか。
現在、東大、北大、早稲田大で「科学技術コミュニケーション」の人材育成などを目的としたプログラムが進んでおり(平成21年度が最終年度?)、「はじめよう!科学技術コミュニケーション」(ナカニシヤ出版)はこの北大のプログラムをまとめたものです。ご指摘の通り、(科学)コミュニケーションを題材にしていますが、この中で科学ジャーナリズムについて取り上げています。ジャーナリスティックな感覚をもってコミュニケーションに関わらなければならないとの内容です。
(感想で申し訳ありません)
「記事の筋書きありき」はまだ横行しています。本人の意図と違うインタビュー記事を載せられた知人もいます。(日経ではないのですが、勿論)TVよりはよいのでしょうが、まだまだ気を引きしめて頂きたいものです。
「まず筋書きありきは避けるべき」というのが持論です。多くの新聞人がそう思っているはずです。おっしゃることは十分気を付けています。