Apr. 2026No.107

研究者になるという選択

NII Today 第107号

Article

「生きたことば」を捉える手話研究者の選択

「言語学ではノイズとして省かれがちな情報を拾い上げ、生きた言葉を捉えたい」。そんな思いのもと、手話研究に長年携わってきた坊農真弓准教授。彼女が、AIを活用して手話を翻訳・生成する研究に注力することになった、ある転機とは。

坊農 真弓

BONO, Mayumi

国立情報学研究所
情報社会相関研究系准教授

(敬称略)

「世界で一番になれる研究じゃないと、続けている意味がないよね」

 私の専門は、ことばだけでなく表情・視線・身振りなどを含めてコミュニケーションを包括的に理解するマルチモーダルインタラクション分析と、手話の言語情報を収集して大規模データベース化するコーパス手話言語学です。その中で現在は、AI技術を使って手話を翻訳・生成する研究に取り組んでいます。

 現在の道に舵を切る一つのきっかけとなったのが、冒頭の「世界で一番に~」という、国立情報学研究所(NII)前所長・喜連川優先生の言葉でした。

"言語オタク"として手話を習得

 もともと私は高校時代に演劇をやっていて、ことばだけでなく、身体を使ってこそ表現できるコミュニケーションに興味を持っていました。大学では言語学を専攻するとともに、テキストがベースとなる言語学だけでは解決できないことがあるとも感じ、大学院では音声学やジェスチャーについて学ぶようになります。

 あわせて、父親の右耳が聞こえなかったこともあって手話に興味を持ち、大学時代から地元奈良の手話サークルに足繁く通い、ろうのおじいさま・おばあさまたちと一緒にお茶を飲んだりしながら手話を身に着けました。私にはもともと言語オタクの気質があり、そうした状況に身を置くことが好きでした。

 その後、博士課程とポスドク時代を経て、2009年にNIIに助教として着任。音声言語や手話言語のインタラクション(相互行為)の研究を進める中、2011年頃から、日本各地で手話のデータを収集する取り組みを始めます。手話には、それを書き起こす記法がありません。テキストを用いて日本語への翻訳はできますが、手話そのものを書き起こす手段がない。また、同じ手話表現でも話者や会話の流れで用いられ方が変わり、含まれる意味やニュアンスが変わる。すなわち、日本語を用いたテキスト翻訳だけでは手話の豊かな言語要素をあまさず拾うのが難しい。だからこそ、手話会話の録画データが、貴重なコーパス(テキストや発話を収集してデータベース化した言語資料)となるのです。

 2012年からは、「ロボットは井戸端会議に入れるか」というプロジェクトをスタート。"アンドロイド演劇"や、日本科学未来館でのサイエンスコミュニケーターの研究などを通し、多人数の会話におけるインタラクションを可視化する研究に取り組みました。

 2017年頃から飛躍的に進化したのが、AIの画像処理技術です。カメラ映像から複数人の身体の動きをリアルタイムで検出できる「オープンポーズ」(カーネギーメロン大学が開発)や、映像から詳細な身体の動きをリアルタイムで認識できる「メディアパイプ」(グーグル)などのツールが出てきたのです。こうして、画像処理で身体的な動きを認識できるようになったことで、収集してきた手話の映像データを活用した、AI研究者との共同研究も行うようになりました。

不意に見えた"特異"な境遇

 こうしてさまざまな研究に携わる中にあって、将来の道標を示してくれたのが、喜連川先生の言葉でした。一番手になれないのであれば、誰かの二番煎じなのであれば、やっている時間がもったいない、と。

 私は、あたりまえのようにろう者の友人がいて、ろう者のコミュニティへ日常的に出入りし、研究を共にするメンバーにも普通にろう者がいました。かたや、協働するAI研究者は聴者です。だから私は彼らに「これは、倫理的にろう者の人たちが喜ばない方向だよ」といったアドバイスができました。いわば二つのコミュニティを行き来し、両者の橋渡し役を担っていたのです。

 しかし、日常的に行っていることほど、客観視できないものです。私はこの立場を、特別なこととは思っていませんでした。それが、喜連川先生との会話をきっかけに、その独自性と意義がふと浮かび上がってきた──。

 そこから私は、取り組む領域を手話に絞り、AI研究者とともに手話を翻訳・生成する研究に注力するようになって現在に至ります。こうして"自分の道" が見えてからは、アクセルを迷いなく踏み続けられるようになった感があります。

 研究の根底に流れるのが、生きたことばを捉えたいという思いです。文字情報は高度で便利です。一方で、うなずき、顔の表情、視線、口の動き、身体の動きなど、文字だけでは捉えられないコミュニケーション情報があります。従来の言語研究ではノイズと扱われがちなこれらの情報を拾い上げ、コミュニケーションをより深く理解する。その点では、今も昔も変わらず、同じものを追い求めています。

研究者の苦しみと、充実の環境

 好きな研究に打ち込むのは楽しいですが、大変なこともあります。私は任期付きの助教だった30代前半で第一子を授かりました。その後も第一線で戦える研究者になるために、研鑽(けんさん)を積んではいたものの、研究だけで生きていく自信がなく、研究とは別の生きがいを持ちたいと感じていました。それが私にとっては「家族」でした。私自身が双子だったこともあり、第一子に兄弟がいる人生を歩ませたい。迷いながらも30代後半は第二子に向けて不妊治療を行い、自己注射による気持ちの落ち込みなどの薬の副作用に苦しみました。

 後輩研究者によりよい選択をしてもらうために、私はこうした経験をできるだけ包み隠さず話すようにしています。あわせてNIIとしても、男女を問わず研究者の間で家族の話を気軽に共有し合える文化が醸成されることは、孤独な判断を減らし、後悔のない選択をする後押しになると考えています。

 NIIは、外部資金の獲得などを土台に自由に研究を行え、産休・育休やリモートワークへの柔軟な対応など支援も充実し、研究に打ち込みたい人には理想的な環境です。

 2026年1月からは、英国サリー大学などとの、5年間の国際共同プロジェクトが始まりました。これは、ろう者の自然な会話データに注目し、相づちや話者交替といったさまざまな相互行為を精緻(せいち)に捉えることで、AIと拡張現実(AR)技術を活用した日本手話・イギリス手話・日本語・英語間のリアルタイム翻訳ツールの開発を目指す研究です。

 すべての研究を通して私が目指すのは、手話がオリジナルで豊かな言語であることを社会に認識してもらい、人々が手話を学びたいと思えるような、ある種のパラダイムシフトを起こすことです。そのために、この先もせっせとフィールドワークを重ねていきます。

取材・文:田嶋章博
写真:杉崎恭一
撮影協力:依田豊

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