Interview
「SINET6」 が日本の成長の起爆剤になり、創り出されるデータ研究の革新
特別対談
国立情報学研究所(NII)が構築・運用する、学術情報の通信ネットワーク「SINET6」が4月から運用を開始した。回線速度、接続点、セキュリティなどあらゆる面で進化したことで、新たに連動される研究データ基盤との相乗効果が、強く期待されている。果たして革新的な研究や成果は生まれるのか。SINETの重要性を早い段階から指摘していた理化学研究所の五神真理事長(前東京大学総長)とNIIの喜連川優所長が、データ駆動型研究や「Society5.0」社会に貢献するSINET6について語り合った。
五神 真 氏Makoto Gonokami
東京大学理学部物理学科卒、同大理学部助手、工学部講師、工学部助教授を経て、同大大学院工学系研究科教授、理学系研究科教授。同大副学長、同大理学系研究科長を経て、2015 年に同大30 代総長に就任。2022 年4 月から現職。専門は光量子物流学。
喜連川 優Masaru Kitsuregawa
聞き手山本佳世子Kyoko Tamamoto
日刊工業新聞社 論説委員
東京工業大学大学院修士課程修了。日刊工業新聞社に入り、科学技術から大学・産学連携の専門記者になる。東京農工大で博士課程修了。東工大などで非常勤講師、電気通信大学長特別補佐、東京都市大客員教授。著書に『理系女性の人生設計ガイド』ほか。
――最初に SINET をめぐるお 2人のかかわりを教えてください。
喜連川 五神先生が総長の時代には、東大総長特別参与として東大のデジタル化全体についてお助けすることになりまして、その中で五神先生が早い時期にSINET の意義を理解し、ファンとなって応援してくれたのです。
五神 東大総長になった 2015年頃から、社会も研究現場も変化が急加速し、中でも深層学習の技術の急拡大により、データを利活用する人工知能(AI)技術が急発展し、サイバーとフィジカルの融合と同時にデータドリブンの社会へと一気に向かうことになりました。私が参加した未来投資会議でも、その社会像である「Society5.0」に関する議論が進められました。 ある日、喜連川先生が総長室にきて、当時西千葉にあったSINET のハブを東大の柏キャンパスに移転する相談をしました。そこで、SINET の優位性や意義を理解することになり、全国を漏れなくカバーする SINET のような高度な通信網こそが高度経済成長期における高速道路などに相当する「Society5.0」時代の社会インフラになると気づいたのです。
400Gbpsに高速化全国展開では世界最速
――SINET6における新展開を説明してください。
喜連川 最大の変化は、研究から生まれるデータを管理・公開・検索する研究データ基盤「NIIリサーチ・データ・クラウド(NII‐RDC)」と融合させたことです。 ネットワークは"道路"で、これまでは情報を運んでいましたが、これからは、データの存在感がぐっと高まってきます。近年、ビッグデータを集めて人工知能(AI)で解析することによって新たな知を生み出す「データ駆動型の科学・社会」への転換が注 目されています。2022 年度からの第 6 期科学技術・イノベーション基本計画では、このデータの重要性が繰り返し強調されています。 中でも研究の世界では理論、実験、計算に次ぐ第 4 の科学的研究手法として、データ科学が位置づけられています。自然科学系だけでなく、人文・社会科学系を含むあらゆる分野で、データを集めて解析することが欠かせなくなります。そのために大量データ(ビッグデータ)を集めたり管理したりする基盤が必要です。この部分を NII が支えていきます。一言でいうと、データの検索エンジンを作る。データを検索するエンジンはいまどこにもありませんから。 SINET を下半身に、NII‐RDCを上半身とした「学術研究プラットフォーム」の仕組みで動かします。
五神 専用の光回線で構成される SINET は、アカデミアの高度なニーズの中で独自に構築されたものですが、そこには計り知れない価値があります。例えば、ネットワーク上での情報のやりとりにおいて、セキュリティの確保は極めて重要です。様々な光ファイバー網をつなぎ合わせた商用のサービスではできない高度な管理が SINET では可能です。全国の行政をつなぐネットワークもSINET に比べると極めて貧相です。「Society5.0」へ素早く移行することを考えると、SINET の潜在力は極めて魅力です。アカデミアにとどまらず、社会のインフラとして様々な場面でもっと活用していくべきです。
――SINET が 5 から 6 にアップグレードしてネットワークはどのように変わったのですか。
喜連川 SINET5 では全国を100Gbps 回線でつないでいたのを、SINET6 では 400Gbps と4倍に高速化しました。全国規模で整備されたものとしては世界最速です。また接続点となるノード(ルータと伝送装置を組み合わせたシステム)を増やして拡張しました。第 5 世代通信(5G)などの超高速モバイルアクセス、研究分野の特徴に応じた VPN(仮想専用網)などの技術もレベルアップしました。 SINET は全国の大学や研究機 関など約 1,000 機 関 の 300 万人以上が利用する情報ネットワーク基盤で、商用のネットワーク基盤とは異なり、大型の実験施設やスーパーコンピューターにつながり、大量の情報を安全性の高い仕組みでやりとりしています。そのため定期的にアップグレードを重ねてきています。
五神 インターネットを介して様々なオンラインサービスを利用できるようになりましたが、肝心な時に必ず回線が混んでつながらない、ということが起きますよね。SINET は回線が太く、十分余裕があるため、そのような問題は起こりません。これほど緻密で高性能な回線が全国 47 都道府県を漏れなくつなぎ、さらに世界につながっているという状況は、とても心強いです。 20 世紀に日本では、研究者たちが、光ファイバー網を全国に敷設し、通信の光化を世界に先駆けて取り組んできました。その取り組みが結実したものが SINETであり、「SINET は一日にしてならず」です。そして SINET6 は単なるハイスピードの通信網ではなく、日本全体をデジタルアイランドにするインフラになるべきなのです。
北海道と九州の病院で遠隔手術に活用へ
――ビッグデータを SINET でやりとりすることで生まれる、研究の具体例を教えてください。
喜連川 SINET6 の高い通信能力を生かす観点でいうと、遠隔手術支援ロボットの技術開発が注目の1つです。札幌に医師がいて福岡に患者がいるとすると、約 2,000km(往復約 4,000km)の間でロボット操作に必要な情報や手術映像などのデータが低遅延で安定的にやりとりされることで、距離を感じさせない施術が可能になるのです。その遠隔手術のための通信条件を探る実証が可能なのは、いまのところSINET6 がある日本だけです。 また大学病院における、患部を薄くスライスしたコンピューター断層撮影(CT)の大量の画像を、さっと別の病院や研究機関に送ることも有望です。
五神 リアルタイムデータの活用の重要性を新型コロナウイルス感染症を例に振り返ってみましょう。感染拡大が深刻になりはじめた頃に注目されたのは、携帯電話基地局に集まる信号から、人々の集まり具合の様子をリアルタイムでモニターするという研究です。ほどなく、自治体やメディアがこのデータを利用して、人混みを避けるようメッセージを発することができるようになりました。「いま、渋谷は混んでいます」という情報を受けて、多くの人たちが渋谷への外出をやめるなどの「行動変容」を誘起したのです。 防災分野でも、集中豪雨が起きたときに、膨大な観測データをリアルタイムで SINET に流し込み、それを SINET につながったスパコンでその場でシミュレーションを行う。すると、5 分程度で「30 分後にここで洪水が起こる」という判断が下せる。こうしたことを実現すれば、防災体制の構築や災害被害の軽減に貢献できる。重要なことは、そこでデータとその解析結果に新たな経済的な付加価値が生まれるということです。
データを企業の視点で分析どんなお宝が出てくるか
――SINET ユーザーはこれまで、「企業は大学や公的研究機関と共同研究する場合のみ」と限定されていました。6 から企業向けにトライアルを行うそうですね。
喜連川 SINET を産業界の先端的な研究開発を支える新たなツールにするのが狙いです。例えば大型放射光施設「SPring8」は、多数のビームラインのうちいくつかが企業利用になっています。放射光を使った測定によるビッグデータは施設者である理化学研究所(理研)のサーバに蓄えられます。これを SINET で、理研のスーパーコンピューター「富岳」へ送り、解析して企業に渡すことができれば、どんな宝が掘り起こされるか。一例ですが、蓄電池における劣化の様子を、リアルタイムで見ていく場合に生まれる、膨大な量のデータなどにも対応できます。どんなところに目をつけ、新たな世界を広げるのか。企業による SINET 活用の動向も楽しみです。
五神 巨大なデータを滞りなく安全に運ぶには知恵も仕組みも必要で、それを世界に先行して提供できる SINET は、未来の社会のビジネスモデル開発にも使えるでしょう。SINET がある日本は、世界の新しいビジネスを創るテストベッド(実証基盤)になるのではないでしょうか。
不登校の子どもも嬉々として学べる
――コロナ禍において各大学で一斉に始まったオンライン授業では、SINET の通信網がフル活用され、そのパワーが実感されました。さらに一般社会で関心の高い、初等中等教育での貢献も期待できそうです。
喜連川 小中高校生に1人1台の端末を行き渡らせる政府のGIGA スクール構想で、これまでにないことが可能になります。いままで子どもたちの習熟度を把握することは、教室の先生が一手に引き受けてきました。ところが、"デジタルの目"を使って、子どもたちの「表情データ」を解析すれば、どの子がつまらなさそうにしているかなど、すぐにわかります。またギフテッドと呼ばれる特別な才能を持つ子を、探し出すこともできるでしょう。 すでに新型コロナ禍で始まったオンライン授業では、不登校の子どもたちが、デジタルの手法を通じてなら嬉々として学びを進められることがわかってきています。
五神 全国学力・学習状況調査など、ペーパーテストがほとんどですが、デジタルテストになれば結果の分析が容易です。さらに、学力の地域差を把握したり、変化をリアルタイムでモニターしたりできるでしょう。GIGAスクール構想の延長として、全国3万6千カ所の学校が、データ収集のポイントとして互いにつながれば、素晴らしいデジタル神経網になるはずです。 その動脈としてSINET が利用できれば、日本は世界に類を見ないデジタルアイランドになる。それを使いながら新たなビジネスを世界に先駆けて開発できる。それは相当付加価値の高いもの です。それを新しいタイプの成長に乗せるための起爆剤とするのです。
SINET活用で医療も農業も根源的に変えられる
――SINET でのデータ利活用は文部科学省だけにとどまらず、社会全体に影響してきますね。
喜連川 そうです。あらゆる省庁の活動に関わってくる可能性があります。厚生労働省の関連なら、地方の医師不足を補う遠隔診療の後押しに効くでしょう。農林水産省で進めるスマート農業では、作物の状況を示すセンサーのデータや画像をネットワークで送り、解析することが期待されています。 SINETを活用することで、医療も農業も根源的に変えることができます。
五神 SINET は学術研究分野向けのものとして構築してきたので、先進的なことにいち早く挑戦できる面があります。 社会が多様化し、複雑化した課題を解決するには、科学的信頼に裏打ちされたデータを参照して、人々や社会が行動を修正していかねばなりません。新型コロナウイルス感染症対応やカーボ ンニュートラルがまさにそうです。そのようなデータ活用の事例や基盤の信頼性を、学術研究の世界から示すべきです。そのプラットフォームを担えるという点も、SINET のすばらしいところです。
だれ一人取り残さないインクルーシブな社会を実現
――SINET について、中長期的視点でのミッションをどのように捉えたらよいのでしょうか。
喜連川 研究の世界は、現実の社会よりずっと先にある、ものすごいものを使いこなして考えを深めていく場です。ですからサイエンスは国力の源泉なのです。他国に類を見ないSINET があるからこそ、「何ができるのか」「こんなことに挑戦してみよう」という発想になってくるのです。 また平時はその力に気づかないかもしれませんが、新型コロナのように「何か事が起こったときに、対応できる強固な基盤が存在する」ということが、国として大事なところなのです。
五神 NIIが提供する情報基盤は全国どの地域でも活用できる、ということも重要なポイントです。戦後の学制改革の中で、47 都道府県すべてに国立大学が配置されたことで、高度なネットワークを維持管理できる人材が全国に配備されているのです。これは、だれ1人取り残さない「インクルーシブな社会」を構築する上で極めて重要です。 それから人類が地球を破壊せずにサステナブルな社会を実現するには、個人の行動が社会全体にとってどのような影響を及ぼすのか、リアルタイムで把握し、他人ごとを自分ごととして捉えた上で、行動選択をするよう促す必要があります。これらを実現するにはリアルタイムのデータをスムーズにやりとりできる、高度なネットワークが必要です。SINETの存在意義は非常に大きいと思います。
喜連川 情報やデータを流通させる上で、SINET6 の通信パワーは、日本の新しい社会を切り開く上での起爆剤となります。SINETは日本のこれからの社会を築くために、欠かせないインフラとなってくるでしょう。
聞き手からのひとこと
SINET は自然科学系の研究者、特に大型研究プロジェクトに関わるケースなどで頼りにされてきた。半面、人文・社会科学系などからはよく見えない面があった。それが全分野で求められるデータ管理の流れや、産業界にも広がる研究ビッグデータ分析のニーズで、様子が変わりつつあることを実感する。「データ× 通信」の切り口により、SINET の魅力はより広く知られるようになるだろう。