Mar. 2023No.98

情報学が導く世界挑戦と進化の10年

Interview

水平線の彼方の「情報学」を果敢に切り拓け

NIIに期待する先導的役割

日本の情報科学の基盤を支える国立情報学研究所(NII)はこの10年、 学問的視点はもちろん、教育的視点からも情報学を牽引してきた。 2022年1月からの教育機関DXシンポでは メタバース空間での講演参加を可能にするなど、 「これから」を感じさせる仕掛けもあった。日本を代表する情報科学者の一人である 西尾章治郎氏が、社会、日本の科学に貢献したNIIの価値の中核を解き明かす。

西尾 章治郎氏

NISHIO, Shojiro

大阪大学総長

高橋 真理子氏

聞き手TAKAHASHI, Mariko

ジャーナリスト

画期的だった「情報学」特化の国立研究所

――今回はこの10年を振り返るというテーマですが、まずはNII創設のころを振り返らせてください。文部省(当時)の学術審議会が「情報学研究の推進方策について」という建議を1998年に出したことで設立準備が本格化したわけですが、当時、私はこの審議会の委員を務めていました。あのとき、「研究所ができることになって本当に嬉しい」と発言した委員が「でも、こんなに小規模とは思っていなかった。国立なのだから、もっと大きくてしかるべきだ」と発言したことが今も印象に残っています。

 そのご意見はごもっともだと思いますが、この時期には既に財務的に厳しくなっていたのでしょう。1986年に文部省の大学共同利用機関として生まれた「学術情報センター」(前身は「東京大学文献情報センター」)を改組・拡充するというシナリオのもとで、最大限の尽力がなされたのだと思います。
 画期的だったのは、「情報学」に特化した国立の研究所が創設されたことです。20世紀の最後の時期は、日本の学術界で「情報学」を目指した新しい動きが相次ぎました。建議が出された1998年に、京都大学では大学院再編で「情報学」研究科が発足しました。それまで、「情報工学」「情報科学」という名の学科や研究科はありましたが、「情報学」は初めての名称で、研究科の公用の郵便封筒に、「『情報学』とはどういう学問なのか」、が記されていたことを覚えています。

――西尾先生は京都大学のご出身ですが、NII創設当時は大阪大学で教鞭をとられていたのですね。

 はい。大阪大学で工学研究科に所属していました。当時、旧帝大と言われる7つの国立大学に全国共同利用施設として設置されていた大型計算機センターが、情報基盤センターとして順次再編されていった時期でした。大阪大学では、まさにNIIが設立された2000年に大型計算機センターと情報処理教育センターなどを統合して「サイバーメディアセンター」という名称のもとで情報基盤センターが創設され、私が初代のセンター長に指名されました。7大学のこうしたセンターとNIIとの関係がどのようになっていくのかは気になるところでした。

――実際、どのようになっていったのですか?

 予想を超える良好な関係ができていきました。学術情報センター時代から取り組んでいた、高速回線で国内外をつなぐ「SINET(学術情報ネットワーク)」はどんどん強化され、国内の学術機関とNIIの間に互恵的な関係が築かれてきました。

喜連川所長のリーダーシップでプレゼンス増大

――NIIでは、初代所長の猪瀬博先生が急逝されたあと、末松安晴先生、坂内正夫先生が所長を引き継ぎ、 10年前に喜連川優先生が就任されました。

 喜連川先生の所長就任は順当なことと受け止めました。データ工学の研究者としてチャレンジングで非常にインパクトのある研究を継続的に推進されてきたうえ、学会活動などで見事なリーダーシップを発揮されるのを間近で拝見していたからです。
 NIIは、創設以来、大学との連携強化を図られましたが、坂内先生の所長時に一層強化されたように思います。例えば、電子ジャーナル価格が高騰し、大学における経費負担の問題が顕在化してくる中で、国内のアカデミアを代表して海外のメジャーな出版社と交渉に当たってくださったのは、大変心強いことでした。
 また、わが国の学術成果を世界に伝える窓口として機関リポジトリの普及にNIIから資金を投入してまで尽力されました。機関リポジトリ公開機関は現在では大学を中心に800を超え、世界でも有数の多さになっています。このような活動を通じて、NIIと国内の学術機関との距離がどんどん縮まり、NIIを頼る傾向が一層強まっていったと考えています。
 喜連川所長は、SINETサービスの高機能化・高信頼化をさらに進め、データ検索サービスなどについても斬新なサービスを次々と提供されました。さらに、コロナ禍の中で2020年3月からNIIが主催された「教育機関DXシンポ」は、すでに50回を超えており、教育DX推進の確かな原動力となっています。この10年間を振 り返ると、NIIは「情報学分野の共同研究機関」から「すべての学術分野の共同利用機関」へとステップアップし、さらに教育分野への貢献も顕著になってきています。

――「NIIのプレゼンスが大きくなった10年」と言えそうですね。日本の情報学の研究力という視点からは、この10年をどのように総括されますか?

 全体的には、10年前よりもトップレベルで勝負している若手・中堅研究者が増えている印象です。ただし、他の先進国が大きく伸びているのに対して、日本は微増にとどまっています。また、システム性能の向上といった工学的な成果に関する研究はまだしも、斬新な発想によるパラダイムシフトを起こすような研究は減っているのかもしれません。
 さらに気になっていることとして、国際的なコミュニティでリーダーシップを発揮する人材の減少があります。例えば、著名な論文誌の編集関係で活躍したり、トップランクの国際会議のチェアパーソンを務めたりする研究者はむしろ減った気がします。

人材不足、産学間の切磋琢磨の減少が課題

――情報処理学会の会長を喜連川先生も西尾先生もお務めになりましたね。私は1980年代に駆け出しの科学記者として情報処理学会の取材もしました。この学会には、企業研究者もたくさん入っていらっしゃいましたが、このところ、半導体産業はもちろんのこと、日本の情報処理産業全体に勢いがありません。このあたりは学会としても苦慮されているのではないですか?

 はい、確かに情報処理学会で企業関係の会員が著しく減ってきています。この傾向は、情報系に限らず他の学術分野においても同様です。
 その背景として、産業界での研究開発体制の大きな変化があります。以前は多くの民間企業にR&D部門があり、産業界にも研究者が多く在籍していました。アカデミアと産業界の研究者が若干異なる価値観を持って議論し切磋琢磨できる健全な関係が築けていたことで、全体として我が国の研究が一流のレベルを保てていました。
 現在、民間企業における技術開発は研究的要素が少なく、目先の収益を重視したものとなっているように思われます。産業界と大学研究機関との共同研究は増加傾向にありますが、企業側に研究者目線で議論できる人材が少ない状況では、企業から持ち込まれた課題の解決策を大学側が一方的に見出すにとどまり、共同で研究をするという状況になっていないケースが増えつつあります。

―― 何とかしないといけませんね。

 従来の産学連携は、企業からの具体的な課題をいかに解決するかという、How to do を問うものでした。今後は、中長期的な視野でどのような課題の克服を目指すべきか、なぜ、その課題を設定すべきかというWhatto do、Why we do ?に焦点を移していくことが肝要です。
大阪大学では、企業と大学が共に創造する、つまり、「共創(Co-creation)」活動を展開する新たなステージを始めています。日本の情報処理産業の活性化には、このような課題探索や基礎研究の段階から組織対組織で共に行う共創活動が重要になってくると考えています。
 また、大学が果たすべき役割として必ず考えなければならないのは、情報処理産業のみならず産業界一般を対象とした「情報人材の育成」です。2022 年のデジタル競争力ランキング(IMD)で日本は過去最低の63カ国中29位でした。このランキングで特に問題なのは、評価項目の中でのデジタル・技術スキル領域に関して 63カ国中62位という危機的な状態になっていることです。

今が情報人材育成のラストチャンス

――日本の情報人材育成のどこに問題があるのでしょうか?

 本質的には、情報分野全体に対する人的、研究費的な投資が国レベル、産業レベルの両方で十 分ではないことに問題があります。
 大学では学部名や学科名に「情報」を冠しているところは少なくないですが、大半は「情報を使って〇〇をする」という応用的な情報関連人材を育成するものです。情報中核人材は国公私立大学全体で「情報」を冠した入学定員総数の2割にも満たないものと推測されます。
 さらに、我が国では、人文学・社会科学系の修了生に対しても、簡単な社内教育をしてソフトウェア・エンジニアなどの職務に就かせている場合もあり、先に述べたランキングの結果は当然とも言えます。情報の中核的な基礎理論を習得し、実践技術を身につけた情報人材が、量的、質的とも圧倒的に不足しているのです。
 中国はそのような質の高い情報人材育成の重要性に15年も前に気づいており、中国屈指の上海交通大学では、情報人材の核となる高度なソフトウェア人材を育成するソフトウェア学部、サイバーセキュリティ学部を一般のコンピュータサイエンス関係の組織と別途に設置しました。しかも、その総定員は数百人に及んでいます。また、米国では、2006年からの10年間に情報人材としての教育を受ける学生の数は4倍になっています。
 それに対して、我が国は惨憺たる状況でして、産業競争力が弱体化しても当然と言えます。

――対策が必要ですね。

 はい。強化策として、まずは情報人材を育成する学部入学定員、および教職員数を大幅に増やすことが不可欠です。また、その拠点となる学部は、地域ブロックの拠点として、小中高校の情報教育への接続や成人のリスキリング、リカレント教育にも貢献していくことが重要です。その第一歩として、令和4年度の第二次補正予算でデジタル人材育成のための基金が計上されました。この基金を活かしながら、継続的支援策が着実に実現していくことを期待しています。まさにラストチャンスと言えます。

日本の情報産業、飛躍の秘訣とは

――今後、日本の情報産業が巻き返すような局面は出てくるでしょうか?

 例えば量子コンピュータの分野は、まだ創生時期でもあり、現在は米国や中国が大きなプレゼンスを示している状況ですが、我が国が量子コンピュータを利活用する「量子ソリューション」などの分野で以前のような産学での協力連携関係を築くことができれば飛躍が期待できるように思います。

――最後に、これからのNIIに期待するところをお聞かせください。

 「情報学」の成果による「情報技術」の革新や製品開発は、他の分野に類を見ないほど、急速に進展しています。この分野で10年先を見通すことは大変難しいのですが、NIIには10年先あるいはその先までを見越して、「水平線の彼方の情報学」を果敢に切り拓くことを期待しています。
 一方、COVID-19のパンデミックを経験し、新たな社会創造に向けて情報学分野への期待が非常に高いことを痛感しています。ウィズコロナ、ポストコロナの時代において、対話や働くことがオンラインによっても可能となる成熟社会へとシステムを転換できた国が、創造性にあふれた公正なプラットフォームを形成できると確信しています。そのためには、ビッグデータの利活用、超ハイスペックなネットワークの整備、情報セキュリティ体制の構築、これらを担う人材の育成が重要な鍵を握ると考えます。
 NIIには、これからも大学と緊密な連携のもとで、プラットフォーム形成における先導的な役割を果たしていただきたいと思います。

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