Dec. 2017No.78

ネットワーク解析で世界を読み解くERATO「河原林巨大グラフプロジェクト」

Interview

ネット社会支える アルゴリズムの力

IT産業に不可欠な頭脳育てる

「グラフ」は点と辺の集合を用いてさまざまなネットワークの構造や特性を調べる数学の一分野だ。NIIの河原林健一教授は科学技術振興機構(JST)の ERATO「河原林巨大グラフプロジェクト」(2012年10月~2018年3月)を率いて、インターネットに代表される巨大で時々刻々変化を遂げるネットワークを迅速に解析するアルゴリズムの開発に取り組んでいる。プロジェクトの狙いや成果を尋ねた。

河原林健一

Ken-ichi Kawarabayashi

国立情報学研究所 情報学プリンシプル研究系教授/ 所長補佐/ビッグデータ数理国際研究センター長 JST ERATO「河原林巨大グラフプロジェクト」 研究総括総合研究大学院大学 複合科学研究科 教授

滝 順一

Jun-ichi Taki

日本経済新聞社編集局編集委員
1956年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、日本経済新聞社に入り地方支局や企業取材を経て、1980年代半ばから科学技術や環境分野を担当してきた。著書に『エコうまに乗れ!』(小学館)、共著に『感染症列島』(日本経済新聞社)など。

 まずJSTのERATO「河原林巨大グラフプロジェクト」の成果をうかがいます。

河原林 巨大グラフの解析を高速化できるアルゴリズムをいくつも開発したという成果を数え上げることはできます。実際にトップランクの国際学術雑誌(ジャーナル)掲載論文は69本、国際会議採択論文も94本という成果を挙げています(2017年10月末現在)。

 しかしここではプロジェクトを通じて育った人材について強調したい。大学院生やポスドクを主体とした若い研究者60~70人に研究資金を提供して、彼らの中から20人ほどが東京大学、NII、京都大学、東京工業大学などアカデミアにポストを得ることができました。これはレガシーとして残ります。

 日本はIT(情報通信)の分野で研究者も技術者も足りないと多くの人が指摘しますが、どんな手を打つべきかがはっきりとわかっている人は少ないと思います。いま必要とされている技術は、例えば10年前に決めた学科の枠内で追求できるものとはまったく違うものになっています。ERATOは学部や学科の壁を超えた研究に資金を提供できるので非常に有効な仕組みです。

 どのような人材が求められているのですか。

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河原林 日々成長するインターネットのことを挙げるまでもなく、交通網やサプライチェーンなど世の中で見えるものの多くの問題がグラフやネットワークに落とし込んでモデル化できます。グラフはネットワークの構造を視覚化するのでわかりやすい手法とも言えます。世界の人口はまだ100億人に満ちず10の10乗のデータ数の範囲で、ネットワークを取り扱うのはそれほど難しくはありません。しかし、例えばそれぞれの人に年齢とか住所とか属性データが100個くらいついてくると容易ではなくなります。グーグルやマイクロソフトなどネットワークを活用する企業にとって、いま最も重要なことは刻々と変化するネットワークにどう追随するかなのです。

 例えば米国の大統領選挙の結果は株価に影響を与えましたが、ネットワークから情報を取り出し世の中で起きていることの少し先を読むことには大きなニーズがあります。いかに先に情報を取るかが勝負なのです。これを実現するにはアルゴリズムの力が不可欠です。どんなにうまいプログラムを書いてもアルゴリズムが悪ければ勝負になりません。データが巨大になればなるほどアルゴリズムが大事になります。速いアルゴリズムを開発することが重要なのです。非常に単純な例をあげれば、1から100までの整数の和を求めるような場合、順番に一つずつ足していくよりずっと早いやり方があることは多くの人が知っています。

 どんなアルゴリズムが速いかは基本的にタスクによります。どんな場合にも速く解析できる汎用のアルゴリズムというものはありません。状況に合わせてやり方を変えなくてはなりません。問題が変わっても答えが出せるのが人間です。つまり臨機応変にアイデアを出せる汎用性のある能力を備えた人間が大事なのです。それにはプログラミング能力だけでは足りません。数学的な能力、深く理論的にものを考え、それを横に展開できる力が必要です。理論的に深く考える力を身につけた人は異なる領域の課題に遭遇しても、研究領域間の横のつながりがわかり、それらを組み合わせて考えることができます。こうしたら解けるのではないかとパッと思いつくことができます。これはコンピュータにはできないことです。そうした人材にどれほど厚みがあるかが、大事なのです。

 米国のシリコンバレーにはそんな人材が集積しているのですね。

河原林 企業の時価総額ランキングでトップ10の多くがアップルをはじめ米国のIT企業です。日本企業はトップ100にかろうじて数社がいるにすぎません。モノづくりだけで価値を生み出す時代は終わりました。サービスで付加価値をつける時代です。サービスには情報が不可欠です。そうした変化は日本の製造業のトップも理解しているとは思いますが、IT産業や技術で起きているダイナミックな変化には追いついていないようにみえます。

 世界の最先端の流れを把握し続けるには、その人もひとかどの研究者でなければいけません。研究者の世界で一流と見なされた人でなければ最先端の研究の意味を即座に理解することが難しいからです。新しい流れの持つ学術的な意味を理解する必要があります。ITの世界では基礎的、学術的とみられる研究成果が新しいサービスの開発や改善に直接つながります。マイクロソフトの研究開発の現場のトップは元研究者です。技術がピンポイントでわかる「指揮官」が必要です。

 日本のIT系企業で耳にするのが、トップが文系出身者の場合、研究成果についていったいどれくらい嚙み砕いて説明したらいいのかわからないという悩みです。初歩から説明したのでは、本当に革新的なことを説明し理解してもらうところまで行き着く時間がないと言います。日本企業にはITの研究を理解するトップが必要です。

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 IT産業では、いわゆる「基礎研究」の持つ意味合いが違うようですね。基礎から応用、実用化といった段階的な研究開発のスタイルではない。

河原林 私が米国で暮らしていたころ、離散数学や計算機科学の優秀な理論研究者が当時のAT&T研究所やマイクロソフトリサーチにいるのを知って、何に取り組んでいるのかを直接聞いたことがあります。彼らは製品やサービスの開発には直接的な貢献をしていたわけではなく、開発の現場から投げかけられる課題に対処するのが役割でした。開発段階で生ずるさまざまなボトルネックを解決したり、解決ができない場合はなぜ無理かを説明したりする。これは数学的な能力がないとできない。

 またさまざまな課題に常に対処するには世界の研究に触れて一線級の研究がわかる必要があります。それには日常的に5割以上の時間を自らの理論的な研究に当て一線級の業績をあげている必要があります。グーグルの研究所でもこの形は変わらないと思います。

 すべての研究者や技術者が数学の深い素養を持つ必要はありません。比較的少数のエリート的な研究者がグーグルなどの研究能力の源泉です。そんなエリート研究者を育てることが日本の競争力のためには重要です。日本にも優秀な若手研究者はいますが、うっかりするとグーグルなどに就職してしまいます。エリートを育て活躍の場をつくることが求められています。

(写真= 佐藤祐介)

インタビュアーからのひとこと

 「数学の研究だけなら何億円も要りません」。河原林さんはそう言って笑った。他のERATOプロジェクト以上に河原林プロジェクトの意義は人材の育成にあるのは間違いない。その目標はかなり達成されたとの印象を持った。

 猛烈な勢いで拡大し私たちの生活に浸透する情報通信ネットワークは、個人の働き方から産業や国家の有り様に至るまで真にゲームチェンジングな技術だと言える。「モノづくり」の大切さを強調する意見をよく耳にするが、今や私たちの生活空間そのものと言って過言ではないネットワークを知り、有用な情報を見つけ出す研究に日本はもっと目を向けなければならない。

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