Jun. 2018No.80

ITによる新しい医療支援Ⅱデジタル革命がひらく医療の未来

Interview

相次ぐ医療系研究センター 設立の狙いとは

システム構築・解析、教育の場として医療を支える

情報・システム研究機構の研究所に、相次いで医療のデータサイエンスに取り組む研究セン ターが設立された。2017年に開設された国立情報学研究所(NII)の「医療ビッグデータ研究 センター」と、今年4月に誕生した統計数理研究所(統数研)の「医療健康データ科学研究セ ンター」だ。両研究所トップに、医療分野に乗り出した意義と今後の連携の方向性を聞いた。

樋口知之

Tomoyuki Higuchi

1989年、東京大学理学系研究科博士課程修了(理学博士)、文部省統計数理研究所に入所。2011年より情報・システム研究機構理事/統計数理研究所長。専門はベイジアンモデリング。日本学術会議の数理科学および情報学分野の連携会員。

喜連川優

Kitsuregawa Masaru

国立情報学研究所 所長

永山悦子

聞き手Etsuko Nagayama

日本経済新聞社 編集局編集委員
1991年、慶應義塾大学法学部卒業、毎日新聞社入社。科学環境部、医療福祉部などを経て、2017年からオピニオングループ編集委員。

永山 医学研究や医療の実用化において、ビッグデータを活用したり、収集したデータを適切に解析したりすることが欠かせなくなっています。医学界のデータサイエンスへの期待も高まっているのではないでしょうか。

喜連川  医学系の論文が採択されるためには、きちんとしたデータに基づかなければなりません。ですから、ITとは縁が薄かったと思われる医療分野の研究者の方々も、データサイエンスに前向きに取り組み始めておられると思います。日本医療研究開発機構(AMED)からの大規模な支援に対応してNIIが開設した「医療ビッグデータ研究センター」では、医学系学会が病院などから大量の医療画像を収集し、NIIが構築したクラウドに投入するとともに、診断を支援するシステムを開発しています。内視鏡画像については、すでに限定した疾病に関して高い診断精度が得られています。ネットワーク、クラウド、セキュリティなどITの専門家が結集し、システムの構築も進めています。4月の日本消化器病学会総会にて現況を講演しましたが、好評でした。とりわけ、AIが医師の職を奪うのではなく、医師とAIが共存する点を強調しました。

樋口 科学的根拠に基づく医療(Evidence-Based Medicine:EBM)を推進するには、データ解析が果たす役割は大きいのです。患者の皆さんが納得して治療を受けるためにも正しいデータが必要です。ところが、日本ではデータ解析に欠かせない統計学があまり重視されてきませんでした。臨床研究などを巡る残念な事件も起きました。これからは「データの時代」です。特に、医学・健康科学分野では大量のデータが集積されるようになっており、この領域における先進的なデータサイエンスの研究・教育を推進しようと、「医療健康データ科学研究センター」をつくりました。

永山 なぜ医学・健康科学分野における統計学の地位が高くなかったのでしょうか。

樋口 研究者自身は重要性を理解していたと思いますが、人材育成は研究室ごとの自助努力に任されてきました。そのせいか統計学は「医学研究の一部品」のような位置づけでした。今年度から、AMEDのプロジェクトとして、東京大学と京都大学の大学院で臨床研究や治験のデータ解析を担う「生物統計学」の専門家育成コースが始まり、ようやく本格的かつ大規模な取り組みがスタートしました。それほど人材育成の体制は脆弱でした。

 そこで、私たちのセンターには系統的な「教育コース」を開設します。博士後期課程の大学院生、ポスドク、現場の若手医師を対象に、基礎的な知識を学ぶ講座から具体的な課題解決をめざすOJT(On the Job Training:仕事を通じた教育訓練)まで計画しています。

永山 NII、統数研の動きは、医学界側にとって「渡りに船」となるのではないでしょうか。

喜連川 私たちは「一緒に頑張りましょう」という姿勢です。例えば、画像診断の支援システムを構築するには、1枚1枚の画像について、がんなどの異常な部位を示すことが必要です。その仕事は医療者にしかできません。医学界側の多大な作業と努力が不可欠であり、私たちがメインプレーヤーになるということではなく、両者が協力して初めて実現するのです。

樋口 私たちは昨年秋、センターの開設前に「健康科学研究ネットワーク」(現在は「医療健康データ科学研究ネットワーク」に名称を変更)をつくり、参加を呼びかけました。すると、全国の大学や製薬企業など66機関があっという間に集まりました。教育センターの取り組みや、AI(人工知能)、ビッグデータ解析、臨床研究などに関する研究開発プロジェクトへの関心の高さを感じました。新しいセンターの活動を通じて、医学・健康科学における統計学の位置づけを変えていきたいと考えています。

永山 医療分野のデータサイエンスを推進するうえで、両センターはどのように連携していきますか。

喜連川 データマイニングが流行った時代がありました。必要とする全体の時間を100とすると、通常、90くらいはデータの準備にかかります。残りの10がデータのマイニング、あるいは解析の部分に当たります。これは現在もそれほど変わりません。データを収集・整理し、システムを構築する仕事は地味で大変な作業ですが、それがあってデータ解析が可能になります。ただし、この90の作業はデータの科学というより工学という気もします。すなわち、データエンジニアリングも重要だということ。東大には情報科学と情報工学がありました。どこからがサイエンスでどこからがエンジニアリングかははっきりしないところも多々ありますが、統数研との連携は、データサイエンスという言葉が出てきたからではなく、それ以前から、そしてこれからも、当然と言えるでしょう。

樋口 私たちはデータがなければ仕事ができませんから、NIIの力は欠かせません。一方、医学研究や臨床研究・治験の分野は、世界で約束事が決まっており、それに従って正確にデータを解析しなければなりません。データ解析のプロフェッショナルがきちんと仕事をしなければ論文にはなりませんし、成果物として世の中に出すことができないのです。そのための基盤づくりが、私たちの役割だと考えています。

永山 まさに医療分野におけるデータサイエンスの両輪ですね。

樋口 これからは、学問も産業も戦略をマトリクス化することが必要です。基盤となる方法論と応用の両方を並行して進めるという考え方です。そうしなければ、現代の変化のスピードにはついていけません。人材育成も同様にマトリクス型が求められます。大学では基盤的な素養を身につけ、企業や研究機関に入って、具体的な課題を解決する経験を積み重ねながらさらに力をつけていくという方法です。そのようなコンセプトに基づいて、センターを設立しました。

喜連川 NIIが一方の輪を支えるとすると、それはITの総合力でしょうか。統数研の本流は数理です。私は日本で最大のIT系学会である情報処理学会の会長を務めていましたが、分野は約40あります。AIはその一つにすぎません。システムを開発するには広範なIT力が必要であり、NIIはITの多様な技術をカバーしています。

永山 両センターの研究が始まったことで、患者の皆さんはどのようなメリットを期待できますか。

喜連川 日本ほど医療機関がきちんと検査データを取得し、蓄えている国はないと聞いています。良質なデータが大量にある環境を活かせば、画像診断での見落としのリスクを減らしたり、医師の負担を軽くしたりすることにつながるはずです。すなわち医師は簡単な診断に多くの時間をかけることがなくなり、判断が難しい診断により多くの時間をかけることができるようになる。全体として、医療の質の向上につながると考えています。

樋口 先ほど紹介したネットワークの狙いは「オールジャパン」で進めるということです。まず、ネットワークを通じてデータサイエンスの重要性への認識を広げます。そして、現代社会は常にダイナミックに変化しており、新たなテクノロジーや、ビッグデータをはじめとする新しいタイプのデータが次々と生まれています。オールジャパン体制で、患者の皆さんの期待に応えられるような現代的な治験のあり方などを研究し、新たな制度づくりにもつながる成果を生み出していきたいと考えています。 (写真=佐藤祐介)

インタビュアーからのひとこと

ある疫学研究の取材で、統計学の専門家が「なぜこのような結果を導き出したのか理解できない」とあきれていたことを思い出す。解析対象のデータの集め方も問われる。結果は、治療効果や政策決定にもかかわるから重大だ。両研究所の取り組みによって「データサイエンス」という強力な援軍を得た日本の医療が、どのように変わるのか。今後の展開への期待が膨らむ。

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