Mar. 2015No.67

映像情報技術が生み出す新潮流

Essay

写真の歴史性

KITAMOTO Asanobu

国立情報学研究所 コンテンツ科学研究系 准教授

 写真とは歴史の記録である。世界のいまを切り取って焼き付けたものが写真なのだから、未来から見ればそれは過去の貴重な記録となる。まあ、当然と言えば当然のことではあるが、最近はこのことの意味を、もう少し深く考えている。

 写真は二度と戻らない風景の記録である。そんなことを痛感するきっかけとなったのが、1993年の北海道南西沖地震である。私は大地震の2年前に北海道の奥尻島に旅行し、ウニを拾ったり民宿に泊まったりしながら、楽しい数日を過ごした。ところが、大地震を報じるテレビニュースは、あの町が津波で壊滅して炎に包まれる様子を映していた。あの風景は二度と見られないのか、という衝撃が、風景を写真に残すアーカイブに興味を持つきっかけとなった気がする。

 とはいえ、写真の歴史性は、大きなイベントにのみ宿るものではない。日常生活の写真に記録された歴史の断片は、過去の記憶を呼び覚ますきっかけにもなる。ツイッターにはフォロー数200万という超人気アカウント @HistoricalPics があるが、このアカウントがやることは古写真とそのタイトルをつぶやくだけ。人気の秘密は、たまたま投稿された一枚の写真が、すっかり忘れていた記憶を鮮やかに甦らせ、そこから語りが生まれてくるからだろう。

 ただ、写真の歴史性は、実はもっと深いのである。そのことに気付いたのは、モバイルアプリ「メモリーハンティング」を開発しているときだった。このアプリは、カメラファインダー上に過去の写真を半透明で重ねることで、過去の写真と同一構図による写真の撮影を支援するものである。こうした同一構図の写真「ビフォーアフター画像」は、防災であれば被災から復興までの変化を記録するメディアとして有用である。しかし同一構図の撮影は、やってみるとなかなか難しい。撮影者と同一の場所に立つだけでは不十分で、実は姿勢のレベルでも同一性が必要になる。撮影者がしゃがんで撮影した写真と同一構図にするには、自分もしゃがまなければならない。そこで、ふと気づいたのである。同一構図での写真撮影は、実は過去そこにいたはずの撮影者と時間を越えて身体を重ねる体験なのではないかと。もし今は亡き人が撮影した写真があれば、そこに自分の身体を重ねてみて欲しい。それは特別な感慨を呼び起こす体験ではないだろうか。

 つまり写真とは、撮影者の身体の痕跡という歴史性も記録したメディアなのである。皆さんが何気なく撮影している写真も、未来の誰かにとっては価値ある写真になるかもしれない。写真の歴史性に思いをはせながら、歴史の中で生きる自分はどんな記録を残せるか、考えてみてはいかがだろうか?

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