Dec. 2014No.66

アルゴリズムと数理研究の融合

Article

脳から新しいアルゴリズムを抽出する

脳科学と情報学の融合の成果を、医療や新たな情報処理へ応用

脳科学と情報学との結びつきにより、新たなアルゴリズムの抽出に挑んでいるのが、NIIの小林亮太助教だ。多くの謎が潜んでいる脳機能の解明に情報学の知見を活用。脳の動きを知ることで、難病の克服といった医療分野への応用が期待されるほか、脳から抽出した新たなアルゴリズムによって、近未来には、コンピューティングパワーに頼らない高速な情報処理を実現することも可能になるという。

小林 亮太

KOBAYASHI Ryota

国立情報学研究所 情報学プリンシプル研究系 助教総合研究大学院大学 複合科学研究科 情報学専攻 助教

脳活動から情報が取り出せる時代へ

 脳科学と情報学との結びつきは、米国ではかなり前から進んでいるという。

 「脳科学の課題は、脳のなかで実際に何が起こっているのかを見極めるのが難しい点です。そうした中、ここ10年ほどの間に、脳科学者が持つ実験データを、コンピュータサイエンティストや数理工学分野の研究者が解析することで、従来の理論を証明したり、新たな理論を導き出すことが頻繁に行われています」と、NIIの小林亮太助教は切り出す。

 例えば、被験者に文字を見せた場合のf-MRI(磁気共鳴機能画像)データを大量に集めると、f-MRIデータを見るだけで、その人が何の文字を見ているのかがわかるという。脳科学におけるf-MRIの計測技術と、それを収集し、分析するデータマイニング技術などの情報学の知見が融合することで明らかになった事例だ。

 一方で昨今、「ディープラーニング」と呼ばれる取り組みも、脳科学と情報学の結びつきによって急速に進展している領域だ。これは、かつて人工知能研究の一領域としてニューラルネットワークと呼ばれていたもので、脳の働きを参考にしてアルゴリズムを改良することで性能が急速に発展しつつある。機械学習や音声認識などへの応用もその一例といえる。

 だが、「脳科学と情報学の結びつきによる技術進化はみられますが、日本ではこの領域での研究者が少ない」と小林助教。欧米においては、政府主導の大規模な研究プロジェクトが開始されているが、残念ながら日本では現状、こうした取り組みを本格化させる動きはないという。

img66-5.JPG

シミュレーションの成果を、脳疾患の治療に役立てる

 小林助教が取り組んでいるのは、脳を構成する最小単位である神経細胞と、それらを結びつけるシナプスの動きを研究することで、脳活動をシミュレーションし、これを難病克服などの医療分野への応用や、新たなコンピューティングモデルの創出などに生かすことである。そうした中、小林助教は、スイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)が、2007~2009年にかけて開催した神経細胞のスパイク予測コンテストにおいて優勝。同コンテストでは、神経細胞から出力される脳内通信信号であるスパイクの動きを予測。その精度を競うものだが、小林助教のシミュレーションは90%という精度でこれを的確に予測した。ノーベル賞を受賞したHodgkin-Huxleyモデルの60%を大幅に上回る実績により、全世界から、神経細胞モデルのシミュレーションモデル基盤を構築したと高い評価を得た。

 さらに、神経細胞がどのように活動して情報処理を行っているのかを推定するデータ解析手法を開発。神経細胞同士の情報のやり取りに使われるシナプスの研究にも踏み出している。

 「シナプス同士がどんな強さで結びつくのか、そのときに何が起こっているのか。これを調べることで、脳活動がシミュレーションできるようになり、さまざまな領域への応用が可能になります」と小林助教は研究の狙いを語る。

 一例としてあげられるのが、パーキンソン病の治療への応用だ。

 パーキンソン病の患者の脳の異常な動きをしている部分に電極を埋め込んで刺激することにより、症状を改善できるという。これは脳深部刺激療法(DBS)という、注目の治療法の1つだ。ここでは、DBSを行っている際の脳活動をシミュレーションすることで治療法の効率化を図るといった研究も開始されている。

 さらに脳波を計測したデータを解析することで、従来は難しかった認知症やてんかんの診断にも活用できるという。とくに認知症診断では正答率は83%と高く、早期に診断・投薬ができれば、通常の生活を送ることができる実質寿命の長期化にも大いに貢献できるだろう。

 「脳疾患のほか、躁鬱病や自閉症などの精神疾患においても、脳科学と情報学の融合手法を用いた研究が行われ始めています」(小林助教)。

新たなコンピューティングモデルを導く

 脳活動の研究は、新たなコンピューティングモデルの創出にもつながる。

 小林助教は、「人間の脳の中に神経細胞は2000億個、シナプスは1000兆個もあり、脳内の1秒間の処理をシミュレーションするにはスーパーコンピュータ「京」を利用しても40分かかる。人間の脳はスーパーコンピュータよりも優れているのです」と前置きをした上で、「学習の際、神経細胞同士をつなぐシナプスが変化することがわかっていますが、こうした複雑な仕組みがわかれば、そのアルゴリズムを応用した新たなコンピューティングモデルを創出できる」という。ビッグデータ時代を迎え、そこから数々の知見を導き出すには、膨大なコンピューティングパワー必要である。だが、脳活動をもとにしたアルゴリズムが開発されれば、これまでのコンピュータにはできない特徴を抽出できるほか、新たな学習方法により、さらに高度な情報処理技術が開発できるだろう。また、脳の効率的な活動に倣えば、究極の省エネコンピュータを開発することも夢ではない。いわば、コンピューティングパワーに頼らない高性能コンピュータの創出が実現されるというわけだ。

 今後いっそう脳科学と情報学が結びつくことにより、医療をはじめとするさまざまな領域へのアルゴリズムの活用が進み、また、新たなコンピューティングモデルが誕生することで、我々の生活がより豊かなものに変わるのは間違いなさそうだ。

(取材・文=大河原克行)

第66号の記事一覧