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学術出版の今後―科研費変革
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研究者から

科学研究費補助金公開促進費(学術定期刊行物)大改革 ―学会はどう対応したか

小松 久男(こまつ ひさお)
日本学術会議 科学者委員会 学術誌問題検討分科会 委員;東京外国語大学 特任教授

 

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科研費

2012年度から科学研究費の成果公開促進費のしくみが大きく改訂された。その趣旨は、複数の学術団体などが協力体制をとること、あるいはこれまでの紙媒体の学術誌に代えて電子化やオープンアクセス(無料公開)を実現することにより国際情報発信力を強化することにある。こうした取組を行う日本国内の学術団体には重点的な助成が行われることになった。日本のすぐれた学術研究成果の国際発信という点では、学術ナショナリズムをとなえないかぎり、おそらく異論はないだろう。日本が電子媒体による学術情報発信に後れを取っていることもまた事実である。今回の改訂は、こうした前向きの趣旨にそったものと理解することができる。

しかし、最近日本学術会議科学者委員会の学術誌問題検討分科会が、今回の改訂について国内の学術団体を対象に行った意識調査結果を見ると、いくつかの問題が見えてくるように思われる。まず、これまでに「学術定期刊行物」の助成を受けたことのある学術団体でも、今回の「改訂を知らなかった」割合が73%もの割合を占めている。初回ということもあるが、認知度は低かったことがわかる。その上で、今回の改訂については63%が賛成と回答しているが、この反対率に等しい37%の団体は、新しい枠組みによる科研費の申請を検討しなかったと回答している。そして、申請を検討した学術団体の73%が申請を行ったという。認知度を高めるという広報上の課題は別として、筆者が注目するのは、検討の有無を問わず来年は「制度の運用次第で検討する・しない」という回答が過半を占めることが示すように、新制度への対応をはかりかねている、あるいは関心を示さない団体が少なくないという事実である。この傾向は、そもそも改訂への反対も含めて人文系の団体に強いように見受けられる。それはなぜなのか。いくつかの人文系の学会で活動する者の一人として、考えるところを述べてみたい。

まず国際発信と日本語の関係について。新制度は二つの種別からなり、種別Iは「掲載する内容がすべて英文の学術刊行物」を対象とし、オープンアクセス刊行支援もこれが前提である。しかし、研究対象との関係で多様な言語を扱い、まさにそこに意義を見いだす人文学と英語による一本化とはなかなかなじまない。また、日本研究をはじめとして、日本語によるすぐれた研究はそれ自体国際発信力をもちえることも忘れてはならないだろう。海外の真摯な研究者は日本語の文献を読んでいるのだから。分野によっては、日本の学会誌に日本語で投稿を希望する留学生や海外の研究者もいる。ここは大切にすべきだろう。一方、学会に目を向ければ、人文系の場合、構成員はかならずしも研究者に限定されるわけではない。学会を支える幅広い会員を前に英語への一元化は無理がある。研究成果の共有や還元、社会貢献はどうなるだろうか。さらに、いずれの学会も力を注いでいるのは、次世代の研究者の育成である。多くの場合、きちんとした日本語で質の高い論文を書けなければ、英語の論文は期待できない。学会誌の査読は、この面で大きな役割を果たしており、大学院の別を超えていわば修練の場を提供している。学会誌は、日本の学術の基盤維持に貢献していると言っても過言ではない。したがって、人文系学会誌の多くは英語化に舵を切ることはできないし、むしろそうするべきではないだろう。いずれにしても、種別Iは人文学にとってはハードルが高すぎる。

それでは種別IIはどうだろうか。こちらは「原則として人文・社会科学領域における取組を対象とし、和文の原著論文の全てについて、英文の研究抄録又は翻訳を有するもの」が対象となっている。こちらは人文系にとってはるかに申請がしやすい。しかし、多くの学会誌はすでに「英文の研究抄録」を掲載しており、旧制度のもとで英文率の向上に努力してきた学会も少なくはない。こうした学会の場合、国際情報発信強化のための5年計画を策定せよと言われても、じっさいには限りなく英文率を上げる以外に書きようがなく、身の丈に合った正直な将来像を描くことはむずかしい。そうだとすれば、あえて申請しないという選択肢も当然ありえるだろう。こうした状況で、せっかく英文率を上げてきた学会が行き場を失うのは残念なことである。思うに、従来の欧文率50%というのは、国際化(外国語発信)と国内誌としての存続(日本語)という二つの目標を両立させる適度のバランスではなかっただろうか。日本の学術誌なのだから、海外から見ても違和感はないだろう。この方向が保証されなければ、換言すれば種別IIは種別Iへの移行措置にすぎないとすれば、種別IIへの応募もためらわれることになるだろう。

次に、複数の学術団体などが協力体制をとって国際情報発信力を強化することについて。一般的に言うと、人文系の学会はその専門分野に従って細分化されており、それぞれの規模は決して大きくはない。外からは「たこつぼ」と見える一方、中では高度の専門性への自負と誇りがある。したがって、大会と並んで学会活動の柱をなす学会誌も、その専門性と独自性を打ち出してきた。学会誌はまさに学会の存在証明に等しく、それだからこそ編集委員などの担当者は手弁当で査読や編集業務にあたっているのである。大学評価などの「改革」によって大学教員の負担が著しく増大している現在、編集委員を確保するのは容易ではない。学会誌の運営は彼らの犠牲的な努力によって、かろうじて支えられていると言ってもよいだろう。また、学会誌の発行経費はほとんど会費によってまかなわれており、逆に会費の大部分はこれに費やされている。会費収入の減少は、学会誌の存続を危うくするのはもちろんだが、近年のとりわけ若手研究者の環境を考えると、会費の減免こそあれ、値上げはむずかしいのが現状である。人の面でも予算の面でも人文系の学会誌は、かつかつの状況にある。

こうした中で複数の学会による学会誌の共有化は有効あるいは可能だろうか。専門分野が近いところでの共有化の提案は個別にはあったが、それはなお少数派に留まっている。学会と学会誌とが分かちがたく結びついている状況で、共有化はむずかしいのではないだろうか。学会はそれぞれに固有の歴史と支持者をもっており、学会誌の共有化は学会の求心力を弱めることになりかねない。理事会の判断は容易ではないだろう。理工系では、既存の学会誌の別を超えて、〇〇学のような大くくりで英語によるリーディング・ジャーナルを創設するという壮大な構想もあると聞くが、正直な感想を言えば人文系の現状との懸隔は大きい。研究の全体を俯瞰して論文を評価、選定できる編集者や多様な言語やテーマに即応できる翻訳者を見いだすことは、人文系では至難の業ではないだろうか。ここまでくると、理工系と人文系との学問のありかたというか、文化の違いを感じざるをえない。

以上、今回の改訂について人文系の一人として感想をつづってみた。後ろ向きのことばかりを書いたように思われるかもしれないが、人文系も国際情報発信や電子媒体による発信に努力を重ねていることは事実である。有能な若手研究者は、かつてと比べれば格段にと言ってよいほど海外の専門誌に論文を投稿し、あるいは国際研究集会の開催や外国語による論文集の編著にも関わるようになった。問題なのは、そこまでやってもなかなか常勤のポストにつけないことである。電子媒体による公開も着実に進んでおり、そこからあがる購読料は、つましい学会収入に寄与している。いずれにしても、せっかくの改訂である。人文系の学会が疎外感をいだかないような説明と運用を望みたいものである。

最後に一つ提案を記しておきたい。今回の改訂はおもに学会を対象にしているが、人文系では大学や研究所、その他の学術機関などですでに定評を得た英語による国際誌もしくはそれに準じる学術刊行物を有するところがいくつかある。日本の学術の国際発信を強化するのであれば、こうした既存の学術資産をもっと活用してはどうだろうか。もしその刊行主体が共同利用・共同研究拠点であれば、なおさらふさわしいが、いずれも恵まれた環境で運営しているわけではない。こうしたところを支援・強化することにより、より有効な成果をあげることができるのではないだろうか。人材と予算に限りがある以上、これは検討されてもよいと思う。

 

 

 

 

研究者から
菊池 誠(きくち まこと)
神戸大学大学院 システム情報学研究科

 

科研費の「研究成果公開促進費」が平成25年度から大きく改革され、学術雑誌の刊行に関わる種目は「学術定期刊行物」から「国際情報発信強化」へと生まれ変わった。この改革には二つの大きな変更点がある。一つは従来の「学術定期刊行物」では対象経費や助成対象となる学術雑誌に大きな制限があったのが、「国際情報発信強化」では対象経費が国際情報発信力を強化する取り組みの全てになり、対象助成となる学術雑誌の条件も大幅に緩和されたことである。もう一つは従来の「学術定期刊行物」では学術雑誌が、すなわち一定の条件下での定期的な学術雑誌の刊行が助成の対象であったのに対して、「国際情報発信強化」では国際情報発信力を強化するための「新たな取り組み」が助成の対象とされ、事業期間が5年と限られて明確な目標と評価指標の設定が求められるようになったことである。

研究成果の発表場所を常に他国で刊行される学術雑誌に頼らなければならないのなら、そのことから被る我が国の研究者の不利益も存在しよう。また、我が国の学術研究の水準を考えれば、適切な学術雑誌を刊行することはむしろ義務と考えるべきである。そして、もしも従来の助成が特定の学術雑誌の既得権益となって、ただ漫然と学術雑誌を刊行し続けることを助長する危険を持つのなら、今回のような改革を欠かすことは出来ない。しかし、特に哲学系の研究分野においては、この助成を受けて実際に事業を実施すべきかどうかは注意深い検討が必要であるように思われる。

一つの問題は、今回の改革の特徴の一つである目標と評価基準の設定についてである。「国際情報発信強化」の計画調書では「取組の目標・評価指標」について「評価指標を含め具体的な目標を設定し、数値等で表せるものについてはその数値も併せて記述」することが指示されている。ここで「数値で表せる評価指標」とは具体的にはインパクトファクターや論文の投稿数や採択率、販売部数などが想定されていよう。この指示は必ずしも「数値で表せる評価指標」によって目標を設定することを強制するものではないが、そのような目標の設定が強く推奨されていることが感じられる。そして確かに、これらの評価指標は理工系の学術雑誌の評価基準としてよく整備されているものであり、哲学系の学術雑誌も決して無縁なものではない。

しかし、少なくとも哲学系の研究分野においては、そうした評価指標の改善は必ずしも学術雑誌の情報発信能力を高めることには繋がらず、無理に評価指標を上げようとすれば歪みが生じてむしろ学術雑誌の質を下げることにもなりかねない。そして、このような指示にも関わらず、敢えて「数値で表せる評価指標」を用いずに目標を設定した場合にどのような評価を受けるのかは予想できない。また、短期間のうちに論文の価値を評価することの難しい哲学系の研究分野においては、数値で表せる評価指標に依らずに設定しうる目標は正直なところ「高い価値を持つ可能性のある論文を掲載すること」でしかなくて、数値で表せる評価指標に依らずに「具体的な目標を設定」することは容易ではない。

もう一つの問題は、この助成が学会の学術的活動は助成の対象としていないために、この助成による活動が「無駄な公共事業」になる懸念があることである。助成の本当の目的は優れた論文を掲載する学術雑誌を刊行することであろう。しかし、分野によって事情は様々であろうが、西洋の伝統に深く根ざす哲学系の研究分野では、実質的な学術的活動を伴わない編集や流通等の活動の努力によって雑誌の知名度を高めたところで、優れた論文は集まらずに世界中から紙くずのような論文をかき集めるだけのことになりかねない。その結果として販売部数が増えれば出版社や学会の収入は増えるかも知れないが、優れた論文を掲載することに繋がらないのなら助成に基づく活動は、費用がかかり関係者の仕事は増やすが実質的な効果の乏しい「無駄な公共事業」でしかない。

助成対象が「新たな取り組み」に限定され、助成期間が5年に制限されていることもまた助成に基づく活動を「無駄な公共事業」に近づけてしまう要因になると思われる。今回、何らかの素晴らしい「新たな取り組み」を思いついても、その取り組みに対する助成は5年後には打ち切られてしまうし、次の「さらに新たな取り組み」を思いつかなければ、5年後には元の学術雑誌に戻ってしまう可能性が高い。もちろん、期待されているのは5年間の助成を利用して学術雑誌が生まれ変わることであろうが、そう簡単に学術雑誌は生まれ変れるものではない。助成を受けている5年間は大盤振る舞いで賑やかに活動しても、実は何も変わらないという無惨な事態が強く懸念される。これもまた「無駄な公共事業」に特徴的に見られる現象であろう。

もちろん、これらの問題は助成の運用方法でかなりの程度は解消可能であるし、助成の制度の問題というよりはむしろ申請者が責任を負うべきである助成の活用方法の問題である。そして今回の改革には、趣旨を明確化して無駄な助成を排除しつつ申請者の自由を最大限確保するという、矛盾する条件を両立させることへの慎重な配慮も読み取れる。助成の制度を適切に活用できないことと、助成の制度そのものに問題があることは違う。学会の運営者や学術雑誌の編集者は助成の制度の想定を超える優れた申請を提案すべきであろうし、「この助成は有効ではない」と考えるのであれば申請しなければ良いだけの話である。

とはいえ、限られた予算の中で助成が行なわれていることを考えれば、より優れた助成の制度が望まれるのは当然である。哲学系の研究分野に限って言えば、「国際情報発信強化」が助成対象とする学術雑誌の査読審査や編集、出版流通等の改善のみによって国際的な情報発信能力を向上させることには無理がある。例えば、我が国の研究者が企画する国際会議を、海外の中心的な研究者を巻き込んで海外で開催して、その特集号を我が国の学術雑誌から刊行することは、学術雑誌の国際的な情報発信能力を強化するためには有効であろう。しかし、資金の乏しい哲学系の研究分野ではそのような試みの実現は難しいし、現在の枠組みではそのような試みは助成の対象にはならない。学術雑誌の国際的な情報発信能力を向上させるためには学術雑誌そのものへの助成だけでなく、学術雑誌を活用する学術的活動への助成と、その二種類の助成の効果的な連携が必要であろう。そして同時に、我が国に国際的な競争力を持つ出版社を持つことも不可欠であるように思われる。

誰もが弊害や限界を認めつつも、昨今は獲得した競争的資金の額によって研究や研究者の価値が測られることが珍しくない。同様に評価される大学もまた、教員に競争的資金の獲得を強く要請する。そうなれば必要もない申請や助成が増えるのは当然であるし、判断の正当性の根拠となるべきピア・レビューが仲間内の馴れ合いではないという保証もない。学術雑誌への助成に限らずとも、あらゆる競争的資金はいつ「無駄な公共事業」に転化してもおかしくない。しかし同じ無駄でも、やがて優れた学術的研究に繋がる実り豊かな無駄もあろうし、そのことは学術雑誌への助成についても同じである。今回の学術雑誌への助成の制度改革が、単に数値で表せる評価指標に長けているだけではない優れた学術雑誌を育てて、論文数や獲得した競争的資金の額によって安易に研究の価値を判断してしまわない成熟した研究環境を築くための礎になることを切に願っている。