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情報は商品か?
Is Information a Commodity?

ブライアン・ペリー (Brian J. PERRY) 1)
前英国図書館研究開発部長

訳 古賀 崇(東京大学大学院教育学研究科)

1) "Heiwa" 10 Crossingfields Drive, Exmouth, Devon EX8 3LP, U.K. Fax: +44-1395-266448 本稿は1999年10月20日(水)に軽井沢セミナーハウスにおいて講演されたものである。

はじめに
情報とは何か
商品とは何か
その通り、情報は商品である
否、情報は商品ではない
おわりに:情報は商品であるべきか?

はじめに

 情報・知識・知恵が経済的価値をもつ、というのは長年にわたり知られてきたことである。聖書に曰く、

「知恵を求めて得る人、聡りを得る人は幸いである。
知恵によって得るものは、銀によって得るものにまさり、
その利益は精金よりも良いからである。」

 これは紀元前800年より編纂が始まった「箴言」からの引用である。しかし、(文書や本のような情報媒体ではなく)情報こそ対価を払われるべきものであるという考えは、軍事・産業スパイの場合を除き、一般大衆には明白なものではない。「情報時代」の到来を初めて考え出した者は経済学者のフィリッツ・マハルプであり、その予言は概して「情報とは新たな経済的原動力の基礎をなす、重要な商品である」という主張を含むものであった。

 一時期、生産物の中から情報の要素を確定してその生産物の価値を算出しようとする試みがあった。例えば、経営学の教祖的存在であるピーター・ドラッカーは、新時代の産業においては部品や労働力ではなく情報が生産物への投入として増加しつつあると指摘した。自動車のコストを例に取ればその40%が材料で25%が労働力であるが、シリコンチップだとコストの1%が材料、10%が労働力、70%が情報である。自動車においても、製品に投入される情報の割合は急速に増加している。

 1980年代のイギリスでは、内閣の諮問機関である情報技術諮問会議(略称 ITAP)による「情報産業を起こす」という報告書の発行とともに、情報の経済的価値に対する認識が高まった。この報告書でなされた提案は、政府から好意的に迎えられた。それは、イギリスで開発しやすい資源に基づく収益源を提示したこと、民間部門により活用されうる公的資源の例(政府情報など)を提示したことによる。サッチャー首相自身、大いに支持するのは「情報の自由な流通であってタダの情報の流通ではない」と述べたとされている。

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情報とは何か

 今回の話の表題には2つの概念が暗示されているので、私が扱おうとする事柄をここで定義したい。まず、情報とは何か。理論上は、伝達・受信されるいかなる信号も情報と言える。人間の場合に限れば、感覚を刺激するいかなるものも情報である。情報は文化、娯楽、労働、研究、日常生活といった目的により伝達される。ここでは主に、確固とした目的により生産・伝達される、公式化された文字情報を扱うことにしたい。本稿では次のいかなるカテゴリーも情報の概念に含めることができる。

1) 列挙:様々な情報媒体(本、新聞・雑誌、研究誌、ビデオ、フィルム、レコード)を定めたリスト。この場合、媒体の中にある情報についてあまり理解は払われないし、分類もほとんどもしくはまったくない。

2) 書誌的参照:ここでは情報媒体についての詳細な記述がある。その記述は標準化され、問題となる媒体について容易に確認できるようになっている。資料の内容を指示するようなキーワードや分類は存在する場合もない場合もある。

3) 情報検索のために組織化された参照。このカテゴリーに含まれるのは、索引・抄録サービスであり、また必要な媒体を選ぶのに十分な情報である。特に抄録は、情報媒体自身を代替するものとして用いられるほどの十分な情報をもつ。

4) 情報媒体ないしそのコピー:実際の本、新聞・雑誌の記事、フィルム、文書、データベースの記入事項など。

5) 媒体(単数ないし複数)から抽出され、注釈のないまま提示される情報。

6) 知的情報:処理・解釈が施され、特定の需要に見合うように分析されたかたちで提示される情報。

7) 助言:特定の応用ができるよう、適切な経験とともに解釈・提示された情報。

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商品とは何か

『ニュー・オックスフォード英語辞典』は、商品を次のように定義している。

「1.未加工の資源ないし一次的な農産物で、売買可能なもの。例:銅、コーヒー豆
 2.便利な、あるいは価値のあるもの。例:水、時間」

『簡略版オックスフォード辞典』では以下の通り。

「1.物品あるいは未加工の資源で、売買可能なもの。特にサービスと対義関係にある生産物。
 2.便利なもの。」

『チェンバース辞典』では以下の通り。

「売買される物品。/物品、生産物。(多義的用法)/利潤、便宜、有利、便利さ、特権。(過去の用法)」

 この場にいる中で、情報は「便利なもの」であるという考えに対して異議を唱える方は誰もいないだろう。本稿の目的に合わせ、ここでは商品を「売買可能な品目」と定義しておく。この定義があれば、本稿の表題に掲げられた問いへの答えは「そう、情報は商品である」とならざるを得ない。もっとも、少なくとも本稿では情報の「品目」についての定義には入り込まないことにしたい。

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その通り、情報は商品である

 情報の商品化が現実のものとなったのは、経済・科学データではなく情報がオンライン化された時点にまさしくさかのぼる。それ以前は、本や新聞・雑誌を購入することは、実際にはそれを保有している時間全体を対価にして、こうした媒体に含まれる情報や思想における権利を購入することであった。オンライン上の情報については、ともすればその情報にアクセスするたびにいちいち課金されることになる。

 オンラインは1960年代に始まるが、その時にはメドラーズ(現在の名称はメドライン)のサービスの導入という画期的な出来事があった。皮肉なことに、メドラーズ以前にあった業務は、「メディカス索引」という印刷版の索引サービスを提供するための、コンピュータが援助する植字サービスであった。しかし、コストや検索の効率・柔軟性が改善された(このために1つのデータベースから様々なサービスが可能となった)ため、あらゆる意図・目的にわたり印刷版は電子上のサービスに取って代わられた。もちろん、この3要素−コスト、検索の効率・柔軟性−があったからこそ、大多数の利用者は電子上のサービスを印刷版よりも魅力的に感じた。

 主に既存の2次資料(例:抄録・検索サービス)を転用したオンライン・データベースの提供が突然急増し、それが電子出版の始まりを告げた。それから間もなく、全文機械可読データベースが利用できるようになった。このサービスとしてレクシス(法律資料)やネクシス(新聞記事)を例に挙げることができる。

 本や新聞・雑誌の発行にコンピュータが長年使われてきたという事実から見ると、驚くべきことに、出版社は全文が電子上で出版される可能性に対して当初は強い警戒感を示していた。各社は、収入の減少−とりわけ広告収入(科学・技術・医学雑誌における収入の大部分をなす)について−に対するおそれ、また電子版が印刷版よりも儲からないのでは、というおそれを抱いていた。それに、著作権を保有し利用料金を課している記事が、違法にダウンロードされかねない、という警戒感もあった。

 このような事態はみなこの10年のうちに激変し、印刷版から電子版への移行、あるいはこの両者の発行−「並行出版」と呼ばれる過程−を行う割合が目に見えて上昇している。

 電子出版の領域に入った出版の主な種類としては、データベース(特にバンキング情報や他の経済情報)、地理データ、情報検索システム(抄録・索引サービスを含む)、全文データベース、レファレンス資料(百科事典など)が挙げられる。よりインフォーマルな他の出版物も重要性を増している。その中には、例えばひとつの主題に特化した電子掲示板があり、これは場合によってはより伝統的な新聞・雑誌に取って代わる勢いである。一例を挙げると、ロス・アラモスで運営されている高エネルギー物理学のための電子掲示板は、物理学者が新説を試す場として最も定着しているもののひとつである。

 インターネットの開放により、オンライン上の情報の入手可能性、およびその利用が、昔では考えられないほどの割合で拡大しており、あたかもこの動きが今後も加速し続けるように見える。

 付け加えると、インターネット上の情報源はどれほどの規模か、というのはいい質問である。分かっているのは、インターネットに接続しているホストコンピュータが約200万あるほか、個人のウェブサイトから大学のアーカイブまで約4500万のウェブサイトがあり、数ヶ月ごとに何百万もの新たなサイトがこれに加わっている、ということである。しかし、これらを総合するとどの位になるだろうか。個人的に大いに驚いたことだが、アレクサ・インターネット社というアメリカの企業が行った調査によると、1998年時点でWWWは3兆ビットの情報にとどまっていた。管見の限りでは、最近の推計としてほかにあるのは、テラサーバというデータベースについての最近の記事に載ったものだけある。それによると、テラサーバはウェブ上に蓄積された情報の半分を保有しており、現時点で950ギガバイト(15兆2000億ビット相当と推測される)の情報を蓄積している。

 私の関心事としてネットないしウェブの規模について述べているのは、ウェブから情報を要領よく検索することがますます難しくなっている(よく組織されたサイトは別にして)ように感じられるからである。NEC研究所によりこの2年間に行われた研究によれば、研究期間の経過とともにインターネット上の検索の効率性は下がっている。ある研究者グループの推計では、1997年時点でウェブ上には3億2000万のページがあり、最良のサーチエンジンが索引づけを行えるのはその中の3分の1に過ぎなかった。同じグループの報告によれば、1999年 7月ではウェブ上のページ数は約8億に達し、最良のサーチエンジンでもそのうちの16パーセントしか索引づけできなかった。メタサーチを用いて同じ質問をできるだけ多くのサーチエンジンに投入した場合は、合計ですべてのページのうち43パーセントを把握できたが、これでは自慢にならない。こうした結果に対するライコス(有名なサーチエンジン)の運営責任者の以下のような回答こそ、より懸念すべきものかもしれない。「100%のウェブページを把握できないサーチエンジンと言っても、実際はそれでいいことですよ。率直に言ってたいていのページは見るに値しませんから」。ウェブ上の多くのページがもつ価値についての彼の言葉には同意できるが、検索に金がかかっている場合は、何が無駄なページで何がそうでないかを決めたいのである。

 規模や検索の効率性がどうあろうと、世界中の情報が1次情報ないし2次情報のかたちでますますオンライン上に提供され、ますます多くの人々(というよりは人々の属する機関)がそんな情報へのアクセスに金を費やしている。情報への課金をめぐるモデルの変化について私が前述したことにもかかわらず、印刷版を買うよりもオンライン上の情報を買う方が実際には安上がりになるかもしれない。「いかなる記事にも1人の読者がいる」という、度々引用される言葉が本当だとすれば、なおさらである。そうであれば、印刷体を保管しないことで節約が生じ、利用者が検索にかける時間が節約される上、必要とされる情報に経費を充てるだけでよくなる。

 情報は単に商品というだけではなく、(今でなくとも最終的には)売買により利益を生むものである、ということは、ここ数年のうちに見られる熱烈な行動により裏付けられている。この行動を起こしているのは、自分の労力で情報を保有し、画像・音声の領域も含めコンテンツをより広く自分のものにしようとする企業、および、電子上の伝送ネットワークをもち、同様にコンテンツを買い取ろうとする企業である。

 当然のこととして、知識や知恵もまた大きな価値をもつものと見なされているが、情報専門職の「武器」に加わった新たな概念であり、最近頻繁に喧伝されている「知識管理」の文脈においてはなおさらである。知識管理の概念を生み出した国においてこの概念の規定に深入りしすぎるのはおこがましい気がするが、聴衆の中でこの概念になじみのない方々のために検討しておこう。この基本的な考えというのは、組織にとって知識は価値をもっており、そういう知識をもつ人は自分の技能と情報を同僚と分かち合うべきだ、というものである。知識管理を組織に導入するための実践の一部として、人々の頭の中にある知識を含め、無形の資産に価値を認めるようにする、というものがある。ビル・ゲイツが『ビジネス・ストラテジー・レビュー』誌の最近の記事で述べたように、「私たちにとっての第一の資産は、私たちのソフトウェアおよびその開発力であり、それらは収支対照表にはまったく表れないものである」。ブリティッシュ・テレコム社の代表取締役であるピーター・ボンフィールド卿が知識管理について記したところでは、マイクロソフト社に100ドル投資したとすると、そのうちの1ドルは固定資産に、残り99ドルは同社で働く人々の頭の中にある資産に相当する、という。関心の向きのために、アメリカの製薬会社数社のもつ知識資本の評価額について、ニューヨ−ク大学のバルッチ・レヴィ博士が算定したものを引用しておこう(下記の数字は10億ドル単位)。

市場価値 知識資本
マーク 139.9 48.0
デュポン 87.0 26.4
ダウ・ケミカル 21.8 10.2

 知識資本は市場価値と必ずしも相関しているわけではない、ということを銘記して頂きたい。

 インターネットが自分の仕事をなくしてしまうと考えていた情報専門職の一部の者にとって、知識管理への関心の広まりは大きな安心材料となるはずである。

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否、情報は商品ではない

 情報ビジネスの大部分は情報を商品として扱うことができ、現に扱っているという事実にもかかわらず、無料で提供される情報もかなりの程度で存在する。このことは何よりもインターネット上の情報にあてはまる。ネット上の情報へのアクセスに課金するという発想に対し、大多数の利用者は驚愕するだろう。ネット上の雑誌・新聞は、最小限のコンテンツを無料で提供している(すべてのコンテンツが無料という場合もある)。ビジネスサービス会社は統計や助言を無料で提供し、株式ディーラーや弁護士・会計士(この2者は伝統的に最もけちな専門職である)も無料の情報を発信している。最も優れた作家やアーティストの提供するフィルムクリップや無料の音楽、ひいては小説の全文をダウンロードすることもできる。もちろん、きわめて便利なソフトウェアをインターネットから無料で入手することもできる。確かにタダでもらえるものにはゴミ同然のものも多いが、役に立つものもそれと同じくらいに多いのである。インターネットは、「コストは価値を反映しない」ことを何よりも体現している市場である。

 きわめて儲かりそうな品物が無料で入手できるという理由は、様々である。公共心のある「サイバー市民」の中には「公共善のために」情報を無料で提供する者がいる、というのが大きな理由である。ほかには、別のサービスの購入を促すため、あるいはネット上での「存在」を明らかにするために、無料の情報が提供される。情報のダウンロードに応じて比較的少額の料金を集めるのが、その管理者にとって面倒かつ費用がかかりすぎる、という場合もある。

 しかし、利益こそが物事の本質であり「タダ飯」が許されない現代である以上、現在は無料のサービスの多くがいずれ課金されるのではないか、という懸念を私は抱いている。新聞についてはそうした事態が現に始まりつつある。

 現在は無料の情報に課金するということに関しては、ワーナー・ブラザーズ・オンライン社の首席副社長がハリウッドの制作会社群に対して行った次のような警告が興味深い。「娯楽産業は将来のオンライン時代に対して投資を行っている。つまり、公開を条件にコンテンツをタダで譲り渡している。だがそれは、基本的には自分たちの知的財産を放棄するのと引き替えに、インターネット企業への財務保証を行っていることだ」。
 インターネット企業の株価が上昇しているのに反し、その中で実際に利益を上げているものはほとんどないことに気づくならば、無料情報という方針にごく近い将来変化が生じるはずだ、という考えに至ることになる。

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おわりに:情報は商品であるべきか?

 情報は商品であり、交換が可能で、実際に利益を上げるために売買され得る、という残念な結論に行き着いてしまった。しかし既成の組織においても、今なお情報は無料で提供されている。例えば、気前のよい経営者は提供者から情報を買い取った後、それを自分のスタッフに対して無料で利用できるようにしている。仲の良い同僚は相互の利益のために自分たちの間で進んで情報を交換するだろうし、研究者も自機関・他機関にかかわらず他の研究者に向けて進んで情報を提供し合う。「知は力なり」という格言があてはまるのは、その知識が共有され利用される場合だけであり、囲い込まれた知識は役に立たないと付け加えておこう。

 ここでの短い話を締めくくるにあたっての大きな問題として、無料のまま残るべきで、さらに容易かつ即座のアクセスがなされるべき情報が何かあるだろうか、ということを自問してみたい。これに対しては、私ははっきりと「そうだ」と答えられる。電子上のコミュニケーションが「情報リッチ」と「情報プアー」との格差をさらに広げるという議論が数多くなされているが、これはきわめて現実味のあることだと私は確信している。

 最低限のことを言えば、毎日の生活を誠実に、幸せに、要領よく、また可能な限り豊かに過ごすのに必要な情報すべては、あらゆる人に対して無料で保証されるべきである。それゆえ、このことを保証するのに求められる情報は何か(この問いへの確固とした答えは私たちにはまだ分からないのだが)を確定し、そうした情報を確実に提供することに、情報専門職と政府の両者は最善を尽くさなければならない。

 18世紀半ばのヨーロッパでは「社会契約」という概念が登場した。これは、「支配者は被支配者に服従するのと引き替えに命令を下すのに同意する」という、支配者−被支配者間の契約に基づき政府権力が生じる、という思想である。私は、この文の中で「命令」の次に「情報」が付加され、すべての政府が市民との「社会契約」のみならず「情報契約」をも結ぶようにする、ということを心から望みたい。

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