学術情報センター軽井沢土曜懇話会報告

国家,民族,そしてセルフ・アイデンティティ

米国ミドルベリー大学名誉教授

宮地 宏

 バーモント州は,南北に長いシャンプレーン湖に沿っていて,人より牛の数の方が多い牧畜の盛んなところ,メープル・シロップが有名だ。歴史的経緯もあり,人々は自立心が強い。ミドルベリー市は州の中程に位置していて,その大学(1800年創立)は,米国で最初に共学を実施した。そして最初の黒人学生がこの大学で育ち,卒業して州の上院議員となり,州都バーリントンに学校を作った。私が渡米したのは1957年で,以後米国には42年間いる。ミドルベリー大学には1980年から奉職した。今日の話には多少自伝的要素を含むことになると思う。

 哲学は問題をつかまえる,提起することに専念する。それがソクラテス以来の伝統である。ソクラテスはある奴隷との対話を繰り返す中から,相手の頭の中に幾何学を芽生えさせることに成功した。これが対話(ダイアログ)という方法で,プラトンの対話編に出てくる。しかし哲学の場合は,進化論や宇宙生成論のように,いつかその真偽が証明できるような仮説的方法ではない。もちろん答えを出そうと努力するし,その過程では論理に従う。アリストテレスの形而上学(第一哲学)は,もろもろの存在の前にあるものごと,フェノメナの前にあるヌーメナを統一齠Iにつかむこと(metaphysics)を目標としたが,この伝統は今も生きている。だから私の話は途中でいくらでも疑義を挟んで貰って(対話を試みて貰って)差し支えない。アンナ・フロイトの弟子のエリック・エリクソンは,31歳で米国に行った移民である。自分が移民であるが故にアイデンティティが大切になったと後に述懐している。私もその同じ立場だ。

 セルフ・アイデンティティのうちのアイデンティティから話を始めたい。アイデンティティとは論理では「XはXである(X=X)」だが,これではトートロジーで意味をなさない。アイデンティティの動詞形であるアイデンティファイするという操作が入っていない。そこで,「X=P,Y=P,故にX=Y」とする。つまり,「私は私である」ではなくて,「私は何々である」と言わないといけない。更に,そこへ時空(T1,S1)の要素を加える。仮に「T1,S1においてX=P」であり,「T2,S2においてX=P」であれば,Pは時空によって変化しないので,「X1=X2」となってそこでアイデンティファイ出来たことになる。次の問題はしからば「Xとは何か」であって,これには,Xとは何かと,それをどうやって知るかの両面が含まれる。前者は存在論,後者は認識論の問題である。以上は論理の世界だが,これを我々の現下の課題に当てはめると,セルフとは何か,それをどうやって知るか,と言う問題になる。昨日の浅間山と,今日の浅間山と同じか? 同じだとどうして言えるか? フレーゲの有名なことば「宵の明星は暁の明星である」(どちらも金星のこと)はアイデンティファイしているか? これを上記の論理に当てはめると,「宵の明星は金星のことである。暁の明星は金星のことである」従って「宵の明星は暁の明星である」はアイデンティファイしている。しかし指示物は同じだがことばが違い,従って意味が違う。ここへ時空の要素を入れれば,「イランはペルシャだ」に同じことが当てはまる。つまり闌サ実の問題として展開すると,存在論のほかに意味論が加わることになる。

 次はセルフの問題。ソクラテスは「汝みずからを知れ」と問うて自らの無知を発見した。おなじことはインド哲学(ウパニシャッド)にもあって,Atman Brahmanということを言う。Atmanは個体(我)のこと,Brahmanは宇宙の原理で,両者の一致(我と他の合体)を説く。これがショーペンハウエルに影響し,彼はヒンドゥイズムを取り入れた欧米にはまれな哲学を展開した。このようにセルフの問題はソクラテス以前から東洋でも問題にしていた。有名なのはデカルトの「我思う,故に我在り」だが,これでは考える我だけになってしまい,心と身体が切り離される。以後,この問題は,イギリスの経験論(特にDavid HumeとJohn Locke)が反省と意識を重視する立場を採り,それを受け継いだカントは,現象の世界(フェノメナ)に対する本体の世界(ヌーメナ)の存在を唱え,ただしそれは人間には知り得ぬものとした。Atman Brahmanの考えを入れたショーペンハウエルは,本体の世界とは「意志=will」だと主張してカントに食い下がった。ヴィットゲンシュタインはこれを言語学の問題としてとらえ直した。「私は考える」「私は頭が痛い」の私には意味がない。日本語は主語を省くので言語学者が苦労している。当面の結論として私に言えることは,「私は存在する(らしい)が,それが認識の対象足り得るか否かは断定できない」というものである。

 他との関係に移ろう。「大学」では,「修身斎家治国平天下」と言う。この修身がセルフだ。他との関係でとらえると「自分」は倫理的存在となる。他との関係は自分→家族→国家→天下と同心円的に広がって行くが,精神分析学では子供とその母親の関係の分析に基礎を置く。清水義範と言う人の「催眠術師」という小説では,人格は環境の子だという扱いを受けるが,これは全く受け身の発想で同意し難い。エリク・エリクソンは自己の展開を八段階に分けたが,これは孔子が論語の為政第二で言った「吾れ十有五にして学に志す…」に対応するものである。倫理については,孟子は性善説を採ったが荀子は性悪説を唱え,そこで倫理の必要性が生じた。和辻哲郎は「面とペルソナ」で,人は環境に応じてマスクを取り替えるのだとしたが,面の背後に私はいるか,それを認識し得るかと言う問題は残る。

 自他を区別する一つの方法として人種があるが,日本人というのは人種ではなく民族だ。民族とは文化を共有すると言う意識を持つもので,ユングはそれを無意識の共有とした。その意識の強さ次第では民族「主義」となる。最近,台湾と中国の関係についてことばの問題が生じている。米語ではone nation, two countriesと言うが,日・中ではどちらも国家だ。英語はnation, country, stateを区別するが,訳語はどれも国家だ。nationは民族に近いことばだから,one nation, two countriesは台湾と中国は民族的に近く,しかし政治的単位としては二つあるという意味だろう。一方アメリカにも問題はあって,自国をone nation indivisibleとタテマエ的にいうが,実際は多民族国家だ。colored peopleというが,白も色だとすると,無色は透明と言うことになり,indivisibleでなくinvisibleじゃないのかと皮肉を言われることになる。そこで形容詞を前に付けてIrish Americans, Japanese Americans, Jewish Americansなどという。このJapanese Americansにもまた一世,二世,三世とある。一世は明治から戦前まで米国に移住した日本人で,市民権,不動産,選挙権のいずれも持たない。二世にも普通の二世と,日本で教育を受けてからアメリカに帰った帰米二世とがいる。戦後もまた移住者がいるが,その中には商社員などの一時的移住者,永住者,市民権を取る移民とがいる。戦後の移民には一世,二世の苦労は分からない。そこで自分はどういう立場にあるかが問われることになる。私は戦後の移民の一人だが,一世,二世の方々の苦労のおかげで自分の現在があると考えている。その際,自分の立場としてイエロー・パワーと言った集団行動の立場は採らない。ショウペンハウエルの「国家は存在せず,個人が存在する」との言にならい,職業である教育を通じて学生に出会って,両文化を分かち合う努力をすることが良いと思う。答えは出ないであろうが,問い続けようと思っている。

(文責=井上如)

 東京大学名誉教授 柳田 博明

 

東京大学名誉教授,早稲田大学教授 安田 靖彦 

 米国ミドルベリー大学名誉教授 宮地 宏


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