学術情報センター紀要第9号(1997年03月28日発行)

「21世紀の政治・経済システム」

Political and Economic System in the Twenty-first Century

佐和 隆光 (京都大学経済研究所長)
SAWA, Takamitsu : Director, Institute of Economic Research, Kyoto University



 (この講演は、平成8年11月1日(金)、国立オリンピック記念青少年総合センタ-にて、 行われたものである。)

 平成不況という呼び名がほぼ定着したかと思いますが、この不況はいつ始まっていつ終わったのかというと、1991年5月に始まり1993年10月に終わったと、これは政府が勝手に決めていると言っていいかと思うのですが、そのように政府が決めているわけです。ということは、この平成不況は30か月続いたわけです。一つの不況が30か月も続くことは非常にめずらしいことです。通常の不況は大体12か月で底入れするのが普通なのです。
 オイルショックのあとの不況が、やや長くて16か月でした。しかし、今回の不況はオイルショックの不況のちょうど倍で、30か月という異常に長い不況だと言って差し支えないかと思います。
 この不況の原因はさておくとして、私はこの平成不況を戦後日本経済の第3の転換点であると位置づけております。
 それではいったい第1の転換点はいつのことかというと、1957(昭和32)年7月から1958(同33)年6月にかけての鍋底不況です。これが第1の転換点です。
 この転換点は何をどう転換させたのかというと、戦後復興期にピリオドを打って高度成長期の幕を切って落とした。そういう転換点だったわけです。ちなみに昭和33年というのはどういう年だったのかを思い起こしていただきたいのですが、一つはミッチ-ブ-ムに沸いた年でありました。つまり正田美智子さんが皇太子妃に決まって、ミッチ-ブ-ムに沸いた年です。それから2つ目に長嶋茂雄が巨人軍に入団したのが、ほかでもない昭和33年です。そして、1万円札が初めて発行されたのもこの年なのです。当時の大学卒の初任給は、1万2千百円余りでしたから、もし1万円札を使って給料を払うとなると、お札が3枚になるということで大騒ぎをしたりしました。それから、ボディビルが流行したのもこの年です。
 今、4つのことを申し上げましたが、この4つのことのいずれもが高度成長期の幕開けを飾るのにふさわしい出来事なり、人物だったのではないでしょうか。
 さて、第2の転換点はいつのことかと申しますと、1973(昭和48)年です。48年12月に始まったオイルショック不況です。そしてこの不況は16か月間続いて、昭和50(1975)年3月に底入れいたしました。16か月間続いたこの不況が第2の転換点です。
 この不況は何をどう転換させたのかというと、高度成長期に終止符(ピリオド)を打った。そのあといったいどうなったのかといと、私はそのあとの時代のことを昭和50年以降の日本経済を減速経済期と呼ぶことにしております。もう少し具体的に言いますと、4%成長の時代に入ったわけです。
 高度成長期というのは、昭和33年に始まって48年に終わったわけですが、ちょうど15年間です。この高度成長期の経済成長率は、平均年率で9.2%でした。そして、そのあとオイルショックを経て後は、再び9〜10%成長の時代に戻ったのではなく、4%成長の時代に入ったというわけです。
 その後4%成長の時代がずっと続いたのですが、私はこの4%成長の時代も、1990(平成2)年に終わったと見ております。したがって、この減速経済期というのも1975(昭和50)年に始まって、終わったのが平成2(1990)年ですから、高度成長期と同じく15年間続いたわけです。
 この15年間の経済成長率は、平均年率で4.2%だったわけです。つまり高度成長期が9.2%だったのが、オイルショックを経て後の減速経済期には4.2%ということで、巡航速度が半分以下に下がったということです。
 この15年間というのは、確かに成長率は半分以下に下がったわけですが、欧米諸国もみんな先進諸国はいずれもそのような減速経済期に入ったのです。相対的には、日本は高い成長率が続いたわけです。
 そして、1987(昭和62)年に、実は日本は一人当たりGNPというものさしで測って、とうとうアメリカを追い抜いたのです。戦後、考えてみますと50年近くにわたって、「追いつけ追い越せ」ということをモット-に掲げ、とにかく我々日本という国は、あるいは日本の企業は一目散に走り続けてきたわけです。その追いつけ追い越せの願いが、1987年にようやくかなえられたわけです。つまり42年間かかってみごとアメリカを追い抜いたというわけす。
 では、この年日本は一人当たりGNPが世界一になったのかというと、実はそうではなくて1位はスイスでした。そして2番目がルクセンブルク、3番がアイスランド、4番が日本だったわけです。
 スイスの人口は六百数十万人ですが、ルクセンブルクは35万人ぐらいです。そしてアイスランドは24万人ぐらいですから、国といっても大変小さな国です。ですから、一億二千数百万の日本が一人当たりGNPが世界で第4位になったということは、これは大変なことだったわけです。
 それはさておき、この減速経済の時代も90年(平成2年)に終わったのだとすると、そのあといったいどうなったのかと。先程申し上げましたとおり、1991年に入るとにわかに景気が悪化して平成不況に陥ったわけです。そして30か月、93年の10月というと今からちょうど3年前ですが、3年前にトンネルを出たと。それにしては相変わらずもう一つパッとしないのではないかと皆さん方は思われると思います。あるいは、まだ不況が続いているとてっきり思っていたと言われる方も少なからずおられると思います。「どうもトンネルは抜け出たのだけれど、元に戻ったわけでは決してない」と。どうも経済構造のようなものが変わったのだと理解した方がわかりやすいと思います。
 いったい減速経済期が終わってどうなったのかというと、私は今現在の状況を、日本はとうとう成熟化段階に入った、あるいは成熟化経済の時代を迎えたと言うことにしています。
 成熟ということばを使いますと、おそらくここにおられる皆様方の半数は、「えらく暗いことを言うな」と言われると思います。あまりイメ-ジがよくないわけです。つまり、「成熟すれば、あとは衰退して死ぬしかないのではないか」と言われるかもしれませんが、私はここで成熟化と言うのは、次のような意味においてのことです。
 戦後50年間、とにかく工業化社会の階段を必死になって、息せき切って駆け上ってきたわけです。そして、階段の踊り場に到達いたしました。その階段の踊り場が、ほかでもない成熟化段階ということなのです。つまり工業化社会としては成熟化を遂げたという意味なのです。
 そして、階段の踊り場は何のためにあるのかというと、これはしばしの足休めのためにあるわけです。踊り場の向こうには、もう一つの階段があるわけです。そして、この踊り場をて後、新しい階段を上りはじめるわけですが、新しい階段とは何なのかと。それは一言で申し上げればポスト工業化社会なのですが、「工業化社会が終わって、次にやってくる社会はポスト工業化社会です」というのでは、これは同義反復も甚だしいわけです。
 「では、ポスト工業化社会をもう少し具体的に内容を言え」と言われますと、もちろん言いだせばきりがないのですが、一言で言えば「高度情報化社会」と言って、あながち見当はずれではないと思っています。
 とにかく新しい社会がまもなく始まろうとしているわけですが、階段の踊り場にいる間に、単にしばしの足休めをしていたのでは、下手をすると21世紀を通じてずっと階段の踊り場にいつづけなければならないと私は思っております。
 つまり一言で申しますと、日本型システムというか、この国の社会、あるいは企業経営、教育、政治、行政等々のあり方が一切合切が、工業化社会向きに最適に設計されていると思います。
 工業化社会向きに最適である日本型システムというのが、はたしてポスト工業化社会向きなのかと問われますと、私自身は首をかしげざるをえません。ひょっとすると最不適かもしれないとさえ思っております。
 さて、話が飛躍するようですが、アメリカという国は1980年代にはもうさんざん悪口を言われていたわけです。「もうアメリカの製造業は衰退した。パックスアメリカ-ナの時代は終わった」と、「パックスジャポニカの時代がやってくる」などということさえ言われたわけです。にもかかわらず、なぜか過去2〜3年間アメリカの評判がいいのです。経済の調子もいい。経済成長率も3%前後の成長率をあげています。それからビック3と言われる自動車会社も何やら元気になったようですし、コンピュ-タやソフトウエアの分野では、圧倒的に強みを誇っています。
 これはいったいどういうことなのか。私はその答えをたずねられたとすれば、次のように答えることにしています。
 80年代のアメリカは、ポスト工業化社会に一番乗りするための産みの苦しみを味わっていたと。そして、90年代に入ってみごと一番乗りに成功したと見ております。
 それでは、ポスト工業化社会というものをもう少しわかりやすく、具体的に内容を説明すると、私は二つの側面があると思います。
 一つの側面は、製造業が高度情報化技術をふんだんに取り入れることによって、ありていに言えば生産性を向上させる、いいものを安く作れるようになること。それがポスト工業化社会の一つの側面です。
 今から3年ほど前に、リエンジニアリングということばが大変はやりました。このリエンジニアリングは、まさしく生産プロセス、経営プロセスに情報化技術をふんだんに取り入れて、抜本的な革新を図るということだったのです。
 アメリカの自動車会社、あるいはコンピュ-タ会社、あらゆる製造業、場合によっては第三次産業が、そういったリエンジニアリングを80年代末から90年代初頭にかけて徹底的にやりました。そして、見違えるようによみがえったわけです。これが高度情報化社会の一つの側面です。
 ポスト工業化社会においては、製造業は消えてなくなると言われる方がいますが、これはまったくの誤解なのです。むしろ、高度情報化技術を取り入れることによって、生産プロセス、経営プロセスの抜本的な革新をやって、製造業をよみがえらせるというのが、高度情報化社会、ポスト工業化社会の一つの側面なのです。
 もう一つの側面は、ソフトウエアあるいは情報関連の産業が経済の中枢部に躍り出るということです。これはまさに今のアメリカを見ていると、まさしくそのとおりだとうなずいていただけると思います。そういう社会にアメリカはすでに転換を遂げました。
 では日本もそういう転換を遂げるためには、システムを徹底的に抜本的に改変する必要があるわけです。例えば教育システムを考えてみますと、今日も文部省の方がおられるかもしれませんが、日本の初等、中等教育のあり方、あの画一的な教育は、考えてみれば、あれはまさしく工業化社会向きなのです。最適な教育のあり方だったわけです。だから日本は成功したのです。
 ところが、ポスト工業化社会向きかと問われると、おそらく「そのとおりだ」と言われる方は一人としていらっしゃらないと思います。どうもポスト工業化社会向きには、ひょっとすると最悪な教育システムかもしれないと言わざるをえないわけです。
 そういったことも徹底的に組み換える、改変する必要があるということをとりあえず一言申し上げておきたいと思います。
 さて本日のテ-マは、21世紀に向けて、世界そして日本、あるいはアジアの経済や政治はどう変わるかということです。世界全体を考えてもいいのですが、ちょっと広すぎますので、とりあえず近隣の東アジア一帯がどうなるのかについてのお話から始めさせていただきます。
 2010年ごろ(今から14〜15年先)に、いったい東アジアはどうなっているのかということについて、私に予測せよと言われれば、私は次のように答えることにいたしております。
 おそらく2010年ころには、東アジア一帯は中国人、華人経済圏になっているであろうと。華人とは、中国籍を持たない中国人のことです。東南アジア諸国、香港、台湾はむろん東南アジア諸国のいたるところに華人がいるわけです。そして、東アジア一帯に住む華人の数は、5000万と言われています。5000万人の中国人が東南アジア諸国、香港、台湾に住んでいるわけです。
 彼らはどこの国に行っても大変経済的に成功しています。そして、今中国のメインランドにどんどん華人資本が流れ込んでいます。華人はいろいろな国にいるわけですが、そういう人たちの間でみごとにネットワ-クが張りめぐらされていて、そのネットワ-クが、中国のメインランドにも今広がりつつあるというのが目下の状況であります。
 私は、中国人や華人というのは、市場経済のプレ-ヤ-として実にタフであると思っています。皆様方もご存じの中国人というのを頭に想像していただきたいのですが、今30〜40代の中国人は生まれたときから社会主義です。ですから、彼らは資本主義なんて全然わかっていない、市場経済なんて知らないのだと思われると、それは大まちがいだと思います。彼らは、本能的に市場経済とか資本主義というのは大好きなのです。どういうことかというと、競争、リスク、選択の自由などというものは大好きです。
 ところが、それにひきかえ我々日本人はどうなのかというと、競争は極力回避しようといたしますし、リスクも回避したがるのです。選択の自由もあまり好きじゃないという人が多いわけです。
 そういう意味では、日本は市場経済の国だと建前上そうなっていますが、実は競争やリスクが大嫌いという人が作っている国ですから、市場経済が本当にいきわたっているかどうかというと首をかしげざるをえません。
 実際、最近規制緩和と言われていますが、この国には1万1000個の規制があると、だれが勘定したのかは知りませんが、とにかくそれだけあるそうです。そして、それだけの規制があるというのは、別にお上がそういう規制を押しつけたわけではなく、競争とリスクが大嫌いな日本人が自ら好き好んで作り上げたシステムだと言わざるをえないわけです。
 日本は、そういう意味ではアジアの中でも非常に特殊な国であるということを、とりあえず強調しておきたいと思います。
 さて、それだけの市場経済のプレ-ヤ-としてのタフネスを持っている中国人、華人が、おそらく2010年ごろにはこの東アジア一帯を自分たちの経済圏にしているであろうということを申し上げました。そのときに日本という国は、中国人、華人経済圏の中に組み込まれているのかと問われますと、私はどうもそうではないのではないかと思うのです。では、どうなっているのかというと、中国人、華人経済圏の外側にぽつんといるという感じだと思います。
 そのことを私はこのレジュメの中で、「アジアの香港になっているのではないか」と申し上げました。もう少し別の言い方をすれば、ヨ-ロッパのスイスのような国になっているのではないかと思います。
 そして、おそらく2010年ごろに中国人は次のようなことを言っていると思います。「あの国(日本)は、今から20年前には経済大国と言われた国だ。そして、93〜94年ごろには、円が非常に高くて一人当たりGNPが世界一だった。そして今も結構豊かな国です」。おそらく私は2010年ごろになりますと、為替レ-トは円の値打ちは今の半分ぐらいになっていると思います。仮にそれが180円としますと、94年に日本の一人当たりGNPは世界一になったわけですが、その年の平均為替レ-トが約90円です。1ドル90円でドル換算した一人当たりGNPが世界一だったわけです。それが、もし同じ今のGNPのままで、もちろん平均的に成長していくわけですが、90円が180円になったとすれば、一人当たりのGNPは半分になるわけです。今現在、一人当たりGNPが日本は3万8000ドルですが、これが1万9000ドルになったとすれば、世界で何番目ぐらいかというと、十何位です。ニュ-ジ-ランド、スペインと肩を並べるぐらいです。しかし、考えてみれば日本の豊かさというのはそんなものかという感じもしないではないわけです。
 いずれにせよ、今申し上げているのは、2010年ごろに中国人は次のようなことを言っているだろうということなのです。
 「今も結構豊かな国らしいです。きれいで安全で、旅行者に大変親切ないい国です。しかし、国際政治や国際経済に対する影響力はまったくない国ですね」と言われている可能性はきわめて高いわけです。
 ですから、この国のしくみを相当思い切って変えないと、今申し上げたようなことになりかねないのです。
 私が今申し上げたのは、中国の今後の経済発展というのは、今の調子が今後当分続くということを前提にして申し上げたわけです。逆に大変悲観的なことを言う人もいるわけです。今から3年ほど前に、世界銀行が「エイシアン・ミラクルズ」、アジアのミラクル(奇跡)というレポ-トを書きました。そして、アジアの経済発展をほめそやしたわけです。それに対して、ポ-ル・クル-グマンというスタンフォ-ド大学の教授で経済学者ですが、この人が「ザ・ミス・オブ・エイシアン・ミラクル」、アジアの奇跡は幻であるというタイトルの論文を書いて大変話題になったのです。今から2年ほど前のことです。
 この中で彼は何を言ったのかというと、東アジアの経済発展は技術進歩なき経済発展であると決めつけたわけです。これは別に中国に対してのみ言っているのではなく、韓国、香港、台湾、シンガポ-ルといういわゆるアジアNIESと呼ばれる国ないし地域、そして日本もその中に入っているわけです。
 つまり、生産要素と呼ばれる労働力や資本の投入をどんどん増やすことによって経済は成長してきたのだと。それだけのことであって、技術進歩がないから、どこかでそれは行き止まると。日本についてはややことばを濁しているのですが、その論文の中で、例えば日本にしても、とうとう成長が止まったではないかと書いてあるわけです。
 ですから、結局技術進歩なき成長というのは必ず止まると、あるところまでいくと止まってしまうというわけです。
 そういうことを言ったわけですが、このことについてはクル-グマン先生の話の進め方にはいろいろ問題があるわけです。私はそうではなくて、とりあえず日本は別にして、韓国から中国にいたるまでのアジアの経済発展は、技術と資本の移転による、あるいは導入による経済発展であるとみなした方が的確であると思っています。そして、技術と資本をどんどん取り入れることによって経済発展すると。
 そして考えてみますと、欧米諸国あるいは日本の技術の水準が高いのであれば、あらためて町工場を造って技術開発をやらなくても、当然よそからちゃんと教科書に書かれた技術をどんどん取り入れればいいに決まっているわけです。ですから、今は技術導入によってどんどん経済が成長していると言うことができると思います。
 ここで一言付け加えて申し上げますと、戦後の日本経済は短期間の間に大変な経済発展をなし遂げたわけです。その日本は、はたして今の中国にとってのモデル、模範になりうるのかどうかというと、私は必ずしもそうは思いません。
 なぜそうなのかというと、戦後つまり1945〜1950年ごろに日本が発展を開始したというのは、非常にタイミングがよかったわけです。あの当時の技術のレベルというのは、今に比べると圧倒的に低かったわけです。つまりキャッチアップ可能な水準にあったわけです。
 ですから、ソニ-であれ、ホンダであれ、あるいは京セラであれ、昭和20年代から30年代前半にかけて、小さな町工場を数人で造って、そして10年後にはまさにハイテク企業に衣替えするという成功例がいくつもあるわけです。
 それは日本人が勤勉であったとか、優秀であったとかいうことだけではなく、それ以上に技術の発展のステ-ジが大変キャッチアップしやすいステ-ジにあったということではないかと思います。
 今の中国に日本を見習えということで、「さあ皆さん、町工場を造って頑張りましょう」と言っても、ここまで技術が高いと、とてもキャッチアップはできません。ですから、技術をどんどん導入して発展するという戦略は、決して誤っていないと私は思っています。
 さて、あと4年と2か月で閉じようとしている20世紀というこの100年間は、どういう世紀だったのかと問われますと、もちろんそれに対する答え方はいろいろな答えがありうるわけですが、イノベ-ションの世紀であったというのが、一つの的確な答えではないかと思っています。この100年間の間に実に数限りないプロダクトイノベ-ション、そしてプロセスイノベ-ションがどんどん行われ、経済がどんどん成長ないしは発展して今日に至っているということになろうかと思います。イノベ-ションの世紀であるということは、言い換えれば、経済成長の世紀でもあったわけです。
 20世紀の初め、つまり2001年の世界のGNPはこれだけでした、今現在それが200倍になりましたと言ってもあまり意味のない比較なのです。それよりも、世界の人口がどれだけ増えたのか、これが一つのものさしになるわけです。
 ロバ-ト・マルサスという名前を皆さん方ご存じかと思いますが、マルサスは1798年に人口の原理(俗称、人口論)という著作を著しました。その中で彼は何を言ったのかというと、今後人口は幾何級数的に一定率で成長するというわけです。他方、食糧生産、あるいは食糧供給は算術級数的にしか伸びないから、やがては食糧不足に陥って、そこで食糧の奪い合いから人はお互いに殺し合い、戦争をやって、そこで人口の増加にブレ-キがかかるということを言ったわけです。
 マルサスが人口論を書いた18世紀末ないし19世紀初めの世界の人口はどのくらいだったのかというと、9億人と推計されています。それでは、19世紀末ないしは20世紀初めの世界の人口はいくらだったのかというと、16億人です。ということは、19世紀の100年間で9億が16億ですから、100年かかって2倍にもならなかったわけです。ところが今現在、世界の人口は58億人です。最近は1年間に9000万人ずつ増えていますから、20世紀末つまり2000年末には、世界の人口は62億ぐらいになっているということはまちがいないと思います。ということは、16億が62億ですから4倍近くに膨れあがったというわけです。
 しかし、マルサスが心配したような食糧不足は起きませんでした。なぜ起きなかったのかというと、これもイノベ-ションのおかげなのです。
 それから経済がどんどん成長することによって、地球の人口扶養能力が高まったわけです。マルサスのころには、世界で9億人の人口しか地球上に養うことはできませんでした。19世紀末には16億人、今やそれが62億人になったということは、それだけ扶養する能力が高まったということなのです。何でそんなに扶養する能力が高まったのかというと、先程来繰り返し申し上げていますように、まさにイノベ-ションのおかげなのです。
 ところで、もう一つ重要な点は次の点なのです。
 1980年ごろまでは、世界の経済というのはいったいどうなっていたのかというと、欧米先進諸国そして日本、つまりOECD24か国、いわゆる工業国というのはその24か国と、ソ連とアジアNIES(韓国、台湾、香港、シンガポ-ル)が、工業化を開始したわけです。この3つの地域で工業製品は作られていたわけです。そして、ものというのは放っておくと必ず作りすぎになります。作りすぎたものというのは、どんどん輸出されたわけです。
 つまり、今申し上げた3つの地域の人口は、OECD、ソ連、アジアNIESの3つの地域を合わせて14億人です。そうしますと、発展途上国に住む人の数、つまり発展途上地域の人口はいくらかというと、40億ということになるわけです。どんどん工業製品を作り、その域内の需要を全部満たしてしまうと当然作りすぎになるわけです。作りすぎたものは、いくらでも発展途上諸国がアブソ-ブしてくれたわけです。どのようにしてアブソ-ブしてくれたのかというと、農林水産物、あるいは地下資源と交換にアブソ-ブしてくれたのです。だから世界経済は成り立っていたわけです。
 ところが、最近は単に東アジアだけではなくてインドなどでもどんどん工業化が始まりました。それから中南米は一足早く工業化を始めました。
 ということで、90〜95年の時点に立ちますと、アジアと中南米が新たに工業化諸国の仲間入りをしてきたわけです。そうすると残る地域というと、中近東とアフリカぐらいになりますから、何と申しましてもアブソ-ビングパワ-、つまりアブソ-ブする力が明らかに弱まってきました。
 このままいって21世紀に入ってどんどん中国でものが作られるようになると、あるいはインドでものがどんどん作られるようになると、明らかに生産過剰になるわけです。当然、資源、環境問題がそれに伴って引き起こされるわけです。
 そうなると、どうも21世紀はいささかならず物騒な時代になるのではないかと。つまり、どんどんものを作り、このまま放っておけば何が起こるかというと、2010年ごろにはニュ-ヨ-クに行こうが、パリ、ロンドンに行こうが、どこへ行っても中国製の自動車が走り回っているという時代に入ると思います。
 そうなると、当然ヨ-ロッパの国々は、ヨ-ロッパ連合(EU)の垣根を高くします。つまり中国製の自動車が入ってくるのを防ごうとするのです。そういうことで、いわゆる地域のブロック化がより一層強固なものとなる可能性がきわめて高いのです。そして、残されたマ-ケット(市場)をめぐって、大変な争いが生じるということです。世界はいささかならず物騒な時代になると思います。
 それからもう一つ申し上げたいのは、今日ここにおられる皆様方と大変関連の深いことかと思うのですが、私の思うところ、今現在プロダクトイノベ-ションが最も華やかな分野というのは何なのかというと、それは申すまでもなく情報通信の分野です。しかし私はいかなる技術であれ、いくところまでいけば必ず成熟化するというか、飽和状態に達すると思うのです。
 情報通信の技術だって、21世紀を通じてどんどん新製品を登場させるということはないと思います。過去のいろいろな技術の例を参照しますと、大体2015年ないし2020年ごろに、情報通信の分野の技術開発が飽和状態に達すると言わざるをえないのです。では、その次の分野は何なのかというと、なかなかそれが思い当たらないわけです
 情報通信が、もしかしたらプロダクトイノベ-ションの最後の泉かもしれないと、私は思っています。
 もちろんバイオのような分野もありますが、バイオの技術が大量生産、大量消費につながるような製品を作り出して、それが日本経済あるいは世界経済の牽引車になるということは期待できないとすると、情報通信の次の分野はいったい何なのか。
 もし次の分野がないとすれば、つまり仮に情報通信の分野がプロダクトイノベ-ションの最後の泉だったとすると、2015年か2020年にそれが飽和するとすれば、21世紀は19世紀と同じく停滞の世紀になるのではないかと言わざるをえないわけです。
 そうならないためにはどうすればいいのかということで、レジュメの[7]というところに処方箋が書いてあります。
 まず一つは、やはり需要が足りないわけです。先程、生産過剰になるということを申し上げましたが、それを防ぐためには地球規模でのケインズ政策を行う必要があります。
 例えば、この国に1兆円の公共投資をしても、それによって誘発される内需、消費は本当に微々たるものなのです。実際に公共事業の現場で働く人は、徹夜で働いて収入が2倍になったとしても、もしその労働者が外国人労働者だったとすれば、1円も消費を増やしません。増えた分は全部貯金しておくのです。当然です。もし、その労働者が日本人であったとしても、家に帰ればテレビもビデオも自動車もエアコンもあるということになると、収入が増えたからといって慌てて電気屋さんの前に飛んでいくなどということはめったにありません。そういうことで、国内でいくら公共事業をやっても、それによってワッと消費が誘発されることは望めないわけです。
 ところが、同じ1兆円を中国に投資するとすれば、中国の内需はおそらく1兆円の3倍分ぐらいは喚起されることはまちがいないと思います。
 今申し上げたようなことを乗数効果というわけですが、日本に比べてまだ中国の乗数は非常に高いのです。ですから、途上諸国へ公共投資を行うことによって内需を喚起して、オ-バ-サプライあるいは生産過剰を抑止しようではないかということです。
 2番目が、先進国と途上諸国の分業による棲み分けを図ることです。例えば、製造業の生産拠点を中国、タイ、マレ-シア等に移転して、日本は情報ソフト分野に産業構造の重点を移行させるのです。どういう棲み分けが望ましいかはさておくことにして、何らかのかたちを模索する必要があります
 3番目が、イノベ-ションの火種を絶やさないよう国際的な戦略を練ることです。つまり情報通信が、これがプロダクトイノベ-ションの最後の泉であっては困るわけですから、その次のイノベ-ション分野というものを探索していく必要があるということです。
 4番目がメタボリズム、循環代謝型文明社会の構築です。これはまさに資源環境問題に対する一つの対応です。大量生産、大量消費、大量廃棄ということでやってきたわけですが、そういう文明を21世紀もずっと持ち越すならば何が起こるかというと、資源の枯渇、地球環境の汚染が免れえないわけです。
 そういうことを避けるために、循環代謝型の文明を構築しようではないかということです。そして循環代謝型文明を我々日本人の手で作り出して、構想して、それを率先垂範するということが、おそらく何にもましてすばらしい国際貢献になるのではないかと私は思っています。
 第5番目は、化石燃料の消費を抑制するための国際的な枠組みを構築しようではないかということです。これからの国際協力が一つの主たるテ-マ、メインイシュ-は地球環境の保全、あるいは化石燃料の消費抑制ということになります。そのために日本は、国際的な枠組みを構築するためにもっと努力すべきだということです。
 最後6番目は、究極の省エネルギ-社会へ向けて、画期的なプロダクトイノベ-ションとプロセスイノベ-ションに挑戦することです。ひょっとするとエネルギ-や環境といった分野が、この情報通信の次にやってくるプロダクトイノベ-ションの分野かもしれません。そういうことを期待して、この分野でのイノベ-ションに挑戦しようではありませんか。以上、ここで21世紀のケインズ問題とマルサス問題への処方箋を6つ順不同で述べさせていただきました。
 何かこういった思い切った対応なり何なりがなされないかぎり、21世紀はこのままいくと停滞の世紀とならざるをえないのではないでしょうか。その結果、工業製品の市場の奪い合い、天然資源の奪い合いといった悲惨な事態が招来されかねないという、警告のようなことを申し上げて私の話を終わりとさせていただきます。どうもご静聴ありがとうございました。

レジュメ「21世紀の政治・経済システム」
[1] 平成不況は戦後日本経済「第三の転換点」
 「第一の転換点」は、1957年7月から58年6月にかけての「鍋底不況」:戦後復興期に終止符を打ち、高度成長期の幕を切って落とした。「第二の転換点」は、73年12月から75年3月にかけての「オイルショック不況」:高度成長期に終止符を打ち、減速経済期(4%成長の時代)へと移行。そして「第三の転換点」は91年5月から93年10月にかけての「平成不況」:減速経済期に終止符を打ち、成熟化段階(工業化社会のラスト・ステ-ジ)へと移行。成熟化段階は階段の「踊り場」に例えられる。工業化社会の階段を息せき切って駆け上ってきた私たちは、とうとう階段の踊り場に到達したのだ。踊り場の向こうにあるもう一つの階段はポスト工業化社会にほかならない。成熟化階段を、ポスト工業化社会への「進化」に備えて、日本型制度・慣行の諸々を改編(トランスフォ-ム)するための時機と理解すべきである。成熟化段階における経済成長率は平均年率2%台前半、80年代のアメリカはポスト工業化社会(高度情報化社会)への一番乗りをするための「産みの苦しみ」を味わっていたのではなかったか?これからの日本は、80年代のアメリカと同じ苦しみを味わわねばなるまい。

[2] 20世紀の最後の10年に入って以降の予期せぬ「激変」の頻発
 1 自民党一党支配体制の崩壊、2 平成不況、3 日本型制度・慣行への評価の逆転、4 日米摩擦の激化、5 円高、6 価格破壊、7 雇用問題の深刻化、8 阪神大震災、9 地下鉄サリン事件とオウム真理教、10 究極の政治的無関心と不安定な政治、11 しのびよる金融不安。

[3] 楽観論と悲観論とが交錯する東アジアの経済発展に対する見方
 2010年頃には、アジアが中国人・華人経済圏となり、日本は「アジアの香港」となるとの説がある。他方、アメリカの経済学者ポ-ル・クル-グマンは東アジア諸国・地域の経済発展を「技術進歩なき経済発展」と決めつけた。東アジアの当面の経済発展を「技術と資本の移転による経済発展」とみなすほうがより的確ではないか。また、そうした発展戦略は決して誤った方策ではなく、むしろ賢明な方策と評価すべきではないか。第二次大戦後の日本と現在の東アジア諸国の違い:技術の発展のステ-ジの差異が、両者の発展戦略の違いを説明する。

[4] 20世紀はイノベ-ションの世紀
 20世紀は「イノベ-ションの世紀」であり、それゆえに「成長の世紀」であった。実際、20世紀中に、無数のプロダクト・イノベ-ション(新製品)が絶え間なく立ち現れた。自動車、航空機、家庭用電化製品、コンピュ-タ、OA機器、等々。大量生産・大量消費につながるプロダクト・イノベ-ションと、労働生産性の向上をもたらすプロセス・イノベ-ションが経済を成長させた。と同時に、エネルギ-多消費型経済社会への移行を促した。マルサスの『人口の原理』(1798年)が発刊された当時の世界人口は9億、1900年の世界人口は16億、1950年の世界人口は25億、2000年には61億。人口の増加は経済発展の結果である。国連等の推計によると2050年の世界人口は100億。19世紀は相対的には「停滞の世紀」であった。19世紀のイノベ-ションといえば蒸気機関と鉄道ぐらいしかなかった。

[5] 情報・通信分野がプロダクト・イノベ-ションの「最後の泉」か?
 いま現在、プロダクト・イノベ-ションの宝庫は何かと問われれば、誰もが口をそろえて情報・通信分野と答えるであろう。しかし、いかなる技術革新であれ、やがては飽和状態に達する、すなわち新製品は出尽くし、それらの普及率も閾値に達してしまう。携帯電話、マルチメディア装置、その他情報・通信関連の技術革新が飽和点に達するのは2015年頃と見る。その後を引き受けるのはなんなのか?もし仮に後を引き受けるものがなければ、21世紀は「停滞の世紀」とならざるを得まい。

[6] 21世紀のマルサス問題・ケインズ問題
 20世紀の80年代までは、高度なモノ作りは、OECD諸国(8億6500万人)、旧ソ連・東欧(4億1800万人)、アジアNIES(1億2400万人)で行っていた。つまり、14億人が工業化社会にすんでおり、残りの40億人は農林水産物と資源と引き替えに工業製品を入手していた。しかし、27億人のアジア人(日本とNIESをのぞく)と4億人の中南米人が高度なモノ作りにエントリ-してきた。過剰生産の危機:21世紀のケインズ問題、エネルギ-・環境・食糧問題の深刻化:21世紀のマルサス問題。

[7] 21世紀のケインズ問題とマルサス問題への処方箋
 (1) 地球規模でのケインズ政策の必要、先進諸国の乗数は小さく、公共投資等による内需喚起には限界あり。途上諸国の乗数は相対的に高いから、途上諸国への公共投資等による内需喚起は「費用対効果」という点からして望ましい。
 (2) 先進諸国と途上諸国の「分業」による「棲み分け」を図る。たとえば製造業の生産拠点を中国、タイ、マレ-シア等に移転し、日本は情報、ソフトウェアに産業構造の重点を移行させる。
 (3) イノベ-ションの火種を絶やさないよう、国際的な戦略を練る。
 (4) メタボリズム(循環代謝型)文明社会の構築、日本の省エネルギ-技術の途上諸国への移転の積極化、設備更新のための資金援助と人口抑制のための教育援助。
 (5) 化石燃料の消費抑制のための国際的枠組みの構築。
 (6) 究極の省エネルギ-社会へむけて、画期的なプロダクト・イノベ-ションとプロセス・イノベ-ションに挑戦する。

[8] 21世紀は「停滞の世紀」か?
 以上のような対応が進まなければ、21世紀は「停滞の世紀」とならざるを得まい。工業製品の市場の奪い合い、天然資源の奪い合いという悲惨な事態が招来されかねない。


学術情報センター紀要第9号目次