SPARC Japan NewsLetter No.10 コンテンツ特集記事トピックス活動報告
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学会とビジネスモデル、そして学術出版・購読アクセスにおけるシメントリーについて

植田 憲一(うえだ けんいち)
電通大レーザー新世代研究センター

 

 

先日(7月23日)、人工知能学会で「消えゆく学会」という刺激的なタイトルのシンポジウムにパネラーとして招かれた1,2 。それを機会に考えたことを報告したい。日本の学術誌の将来を考えるとき、その母体である日本の学会そのものの在り方、存在意義を考察することなしに、学術誌だけを議論しても意味がない。

パネラーとして、私が設定した問題意識は 1)本当に学会は消えつつあるのか、2)学会は消えて良いものなのか、3)学会を代替するものは何なのか、に答える必要があるというものである。

他のパネラーと同様、私自身、国内外の12の学会に所属し、国内学会と米国学会のビジネスモデルの違いを痛感してきたという自己紹介をした。所属学会は物理系から工学系まで広く分布している。最初に、学会が消えるという議論をしているのは日本だけだ、と指摘した。米国学会は世界学会への発展、脱皮を図ろうとしており、発展著しいアジア諸国や開発途上国では、戦後の日本と同じく学会は社会変革の原動力の一部を担っている。あちらでは“学会を発展させる”という議論があっても、“学会が消える”という問題意識は存在し得ない。欧米学会と同じ時期に学会を創立し、我が国の学問、科学、技術の発展に大きな寄与を果たした学会を持つ日本だからこそ生じた問題意識で、それは同時に、欧米と肩を並べる学問、学術活動、そして、学術出版を今後、どうして維持していくかの問題意識である。

“消えゆく学会” の隠されたテーマは、そもそも “学会とは何か” ということだろう。ここで注意したいことがある。我々の感覚は微分的で変化や内外の差については敏感だが、定常的に存在するものには鈍感で感覚が飽和する(一般では麻痺するという)。しかし、空気や水が生命を支える基盤であるように、最も重要なものは、“変わらず存在する” ものにこそある。人々や社会は学問、学術活動の “生産物” を見て、学会の行っている学術活動の結果を評価する。しかし、コンピュータやロボット、新しい材料は学術活動の生産物であっても、学術活動そのものを表現していない。研究者なら誰もが知っているように、研究活動そのものは、もっと違った場所で、こつこつと地道に積み上げている活動である。そこで実感することは、営々と先人達が構築した学問を利用しながら、新しい石を積み上げている自分である。学会が支えている学術活動そのものは、研究者たる我々自身が評価しなければ、とても評価しきれるものではない。他人の目を意識する以前に、自分たちが学会をどう評価するか、こそが重要な視点でなくてはならない。

学会とは何かという場合、だめな学会を分析しても学会の本質は議論できない。誰もが認める学会として、APS(米国物理学会)、OSA(米国光学会)、日本物理学会、応用物理学会などを例にして、学会の本質とビジネスモデルを検討した。これらはいずれも長い歴史を持ち、各分野の学問の発展を担ってきた。いずれも出発点は、100人内外のごくわずかの研究者の自発的な集まりである。世界のどこでも学会は研究者が自発的に組織した私的組織である。学会が大きな役割を果たした20世紀は科学・技術の時代で、学術活動は人類の歴史を塗り替えてきた。その結果、学会の社会における存在価値も高まると共に、社会からの要求も強くなっている。これらを総括して、パネルでは以下のように述べた。

【学会そのものは、一定分野の専門家が自分たちの研究分野の情報交換や社会への普及などを図るために組織した “私的な組織” である。しかし、その内容である学問、科学が高度な社会性を持つために、私的な組織である学会は世界各国で “公的な存在” だと認知され、社会的な尊敬と保護を得ている。特に欧州では、学問の保護育成は国家の文化を支えるものとして保証されてきた歴史がある。また、学問、科学界における歴史的巨人の存在は、その国の文化、国民に大きな影響を与えてきた。欧州では “学問は文化” である。有効性や利用価値を微細に云々する存在ではない。そのような歴史のない米国でも、学会活動は “高度に公的な存在” だと認められている。学問、科学、技術そのものが社会全体に寄与することだと認知されており、学会はそれらを私的に囲い込むのではなく、公的に公開する重要な組織だからである。

自立した私的団体である学会は、国からの補助をもらうことはほとんどなく、独自の活動の収益で自立し、同時に国民からの寄付という支援を受けている。しかし、学会の基本的立場として、“学会は会員のためにある”、ということが徹底されているのが米国の学会であり、この哲学が米国学会を世界学会とさせている基本原理である。】

我が国の学会も同じ理念、原理に基づいて組織され、20世紀に、立派な学術活動を欧米以外で唯一、例外的に展開、教育や産業育成にも大きな貢献をし、自立的な学会組織を運営してきた。インターネットの発達と共に、電子化出版、オンライン配信の技術が発展し、にわかに国際的な学術競争の世界に巻き込まれたように見えるかもしれない。しかし、多くの学問分野で、それ以前から研究上の国際競争が激しく行われてきた。むしろ、インターネットもない時代に、国内で立派な雑誌を刊行しながら、海外へ頒布する手段を持たないにもかかわらず、論文を海外に郵送、寄贈して国際的学術社会と交流を続けてきた先人の苦労を思えば、最近の技術発展は、いずれも我が国の学術情報発信を容易にする手段ができたと受け取るべきである。もちろん、競争はそれほど簡単でなく、すぐれた手段の存在がより厳しく影響し、結局、国際学会、国際的学術出版組織に飲み込まれる危険が増加していることも、研究者が等しく感じている現実である。

国際学会に飲み込まれて何が悪いという議論も当然ある。学術活動が人類の知識の増大、その記録、保存、流通にあるとすれば、国内に限定した活動など意味がないという意見もある。現代社会では国際的に認められてこその人類の知的資産だという見方もおそらくは正しいだろう。その一方、学問、科学の世界は、一般社会とは少し異なった推進原理をもっていることにも注意を払う必要がある。学術活動の世界では、多くの研究者が価値を共有し、同じ方向に向かって努力を集中している場合、その分野は成熟しているといえるが、同時に、ある種の終わりに向かって突き進んでいるともいえる。科学の質的な飛躍、革命的な進歩は常に少数者によって生み出されてきた。多数と異なる考えが科学の革新を生み出してきたとすれば、そのような学術活動を支える組織、学会が統合され、一つのカラーに染まっていくのが学術上の進歩だとは必ずしもいえない。

エスノセントリックという言葉がある。自己民族中心主義と訳されることもあり、狭量な民族主義と結びつき他民族の迫害に利用されたことがあるので、否定的に捉える向きが多い。一方、自己肯定主義と解釈し、少数民族自身が自分たちの社会、文化、生活を肯定することで、厳しい環境にも耐え抜く力を与える肯定的な側面を評価する場合もある。日本人が日本の風土が大好きなように、極寒のエスキモーはあの厳しい自然が懐かしく最高に思える。そうでなければ、我々は多様性をもった人類として生き続けることができない。ここに、共通尺度を持ち込んでも意味はない。文化と文明の違いとはそのようなものである。ならば、文化を担う学会という組織のなかに、一見客観的な尺度を持ち込むことが、果たして学術活動や科学の進歩に役立つのであろうか。学会の本質を考えたとき、このような根本的な疑問に突き当たる。他の学会をうらやむようなことでは、学会が成立しない。一般社会から見れば独善的で大したこともない学会に閉じこもり、自分を信じて本質を追究する学会があったとして、それは学会本来の形かも知れない。たとえ、外部から見れば、誰も住みたくない極寒の世界だとしても。少数であるかどうかは問題ではなく、肝心なのは、それが新しいかどうかである。同じ少数者であっても、旧弊に凝り固まって新しいものを生み出さないならば、学会としての命はつきたといわれても仕方ない。

学問、科学の世界にも自己肯定主義が必要である。むやみと客観主義を吹聴するのは学問、科学を推進するために役立たない。学術研究における競争が公平であるべき、ということと、多数が認める客観的な尺度で、公平に判断するということは必ずしも一致しない。一般社会では、多数が認めるものが真実に近いという前提で、合意形成を行っている。しかし、学問、科学の世界は多数決は必ずしも真理への近道ではない。むしろ、みんなが認める常識にこそ、根本的な欠陥が含まれていると考えて、本当の真実を見つけ出そうとするのが、科学の姿である。学会や学術誌を考える基準は、あくまでも、学術活動や科学にどれだけ役立つか、と言う視点、尺度に根ざしていなければならない。

図1: 米国物理学会の収支構造、ジャーナル出版収入で学会活動を支えてというビジネスモデル 図1: 米国物理学会の収支構造、ジャーナル出版収入で学会活動を支えてというビジネスモデル

前述のように、私自身、国内9学会、海外3学会に属し、小さな学会を含めて、我が国の学会が与えられた条件の中で最善の努力をしていることをよく知っている。学会事務局、出版組織を含め、使命感にあふれた人々が、学問、学術活動の活性化のために働いている。にもかかわらず、日本の学会の運営は将来への発展的展望を持つことが困難な状況に置かれている。米国学会が活発な活動を展開し、世界制覇を拡大しつつある背景には、彼らが組織としてのビジネスモデルを確立し、立派な事業体として活動していることにある。米国物理学会の収支構造を示した図1を見れば一目瞭然、そのビジネスモデル、すなわち収益を上げて、学会活動を支えている事業はジャーナル出版である。ジャーナル出版を大きな収益源としなければ、世界学会に互した活動を展開することは不可能である。そして、世界学会はいずれも同じで、ジャーナル出版以外に大きな定常的収益源はない。世評とは異なり、日本は学会による研究者、技術者の組織率が世界で最も高い国である。物理学分野で見れば、米国物理学会は会員数4万人強と大きいが、完全に世界学会化しているために、米国1/3、欧州1/3、アジアその他が1/3という構成で、アジア諸国の会員数が増大している。一方、日本物理学会だけでも17,000人以上の会員で、米国との人口比を考慮すると、組織率は3倍以上になる。これに応用物理学会を含めると、日本の物理系学会は世界が模範にする学会活動を展開してきた。それだけの高い組織率を誇り、多くの研究者を集めた立派な年会、講演会を行っている学会でも、従来の活動を維持するだけでは世界的競争に勝てないのである。なにより、研究者の世界は学会の垣根も国という垣根もほとんど意味を持たない国際マーケットの中で研究競争をしていることを忘れてはならない。

ここで少し、脱線をさせてほしい。学術誌問題を議論すると、その重要性ゆえに、どうしても建前が前面に出る。本当の本音が言いにくい。SPARC の場は、出版側と図書館サイドが本音で語るために作られたと聞いた。我が国の学会も、そして国内図書館も、学術出版に関わるものとして、その目的は同じだと信じる。我が国の学術活動が活発になり、世界に堂々と成果を発表し、その影響を拡大することであろう。その点で、両者は一致しているはずである。図書館関係者に問いたいことがある。20年後、日本の研究者がその成果を発表する場を完全に海外ジャーナルに依存する未来を好ましいと思っているわけではないだろう。SPARCは海外出版社による独占状態を打破し、適正価格でジャーナルが読める環境を実現しようとして活動してきた。しかし、その目的は価格高騰への対応だけではなく、学術活動そのものの活性化であったはずだと考える。

第三者的な立場に立てば、質の低いジャーナルは淘汰されるべきで、国内学会が世界的な評価を受けるジャーナルを刊行できない状況をじれったく思っているだろう。しかし、図書館が講読している学術ジャーナルは我が国の学術活動の全体像を必ずしも反映していないことを知ってほしい。プロの研究者が発表する学術ジャーナルの前に、学生を育て、技術者に情報を提供し、産業力を高めている多くの国内誌、研究会資料、学会予稿集などがある。これらは、いわゆるインパクトファクターのような指標で評価すれば、それほど価値はなく、また、場合によっては、内容自身、完全なオリジナルでないものも多く存在する。しかし、それなしに、一挙に国際学術誌に掲載されるような研究成果が生まれるわけではない。子供が育つように、学術活動を育み、苗床を整備する活動が学会には求められる。そして、それはビジネスとしては決して採算にのるものではあり得ない。我が国における研究会活動や講演会活動は、世界的に見れば、国際学会が社会活動とか、教育活動といっている活動を多分に含んでいるといえる。同じ事を SPARC や図書館が目指すべき時期に来ているのではないか。

学術論文の流通という観点でいうと、我が国の場合、出版事業は学会が担い、その講読については大学図書館が担っている。同じ学術情報流通であり、学術活動にとっては不可欠の役割で、両者はシンメトリーを形成している。しかるに、学会出版は研究者集団の私的な活動と見なされ、図書館業務は公的なものと見なされている。その結果、雑誌購読は図書館を通じて公費で、ジャーナル出版経費は著者負担と図書館による購読料でまかなわれている。著者負担も実質は公費である研究費なので、学術ジャーナルの出版自身、それを支えているのは、公的な研究費と購読料である。国民から見れば、どちらで負担しようが、学術活動の支援経費の総額に変わりはない。インターネット技術の進歩、電子的データ収納の技術革新は、出版部分よりより大きな変化を論文講読のスタイルに生み出している。学会出版、図書館サイドは、学術出版を支えるシンメトリーを支える組織として、我が国の学術活動の活性化のために、共通の目的のためのシンメトリーな協同作業と展開する必要があると提案したい。

図2: 同じ研究者集団をサポートする学会と図書館 図2: 同じ研究者集団をサポートする学会と図書館

学会と大学図書館は著者と読者を含む研究者全体に対して、図2に示したようにシンメトリーな関係で学術活動をサポートする。両者はまさに相補的な存在である。両者が観察している研究者像は、研究者の異なった側面であって、同じ面を見ているわけではない。どのように違った側面を見ているかをはっきり認識することも、実りある議論をするためには必要である。学術発表の場を受け持つ学会が眼にする研究者像は、研究活動を通じて、何とか新しい知見を得ようとする生身の研究者像である。彼らはまた、自らが得た知見を新しいものだと他の研究者に認めされようと必死の努力をしている。きれい事でやっていては、研究者の立場も危うくなる。その中で、海外ジャーナルに自分たちの死命を制せられ、時には不当な扱いを受けて悔しい思いをしているが、それをあえて口にすることは難しい。本当に優れた研究ならば、海外も認めてくれるはずだという一般論に勝てないからである。負け犬のいいわけと捉えられがちなので、研究者は弱みを見せず、さらなる努力で克服しようとする。それが日本の学術活動をここまで向上させてきた原動力だとすれば、それもあながち悪いことばかりではなかった。同時に、欧米からすれば、立派な学術雑誌を生み出し、ボランティアのピアレビュウーの多くを負担している彼らがある程度の利益を得るのは当然である。悔しければ自分たちで一流誌を作る以外に途はない。

一方、大学図書館が目にする研究者は、学術情報から研究の流れを読み取ろうとしている読者としての研究者であろう。学術情報の中から有意義な情報を読み取り、自らの研究に生かそうとしている研究者の像は、研究者以外の読者とそれほど変わるところがない。客観的な情報分析や全体の流れの把握という点では、特定領域の研究者が一般読者に比べて特に優れているということは必ずしもいえない。もちろん、科学論文を読み解くには専門知識が必要で、その点で研究者は優れているが、それは同時に、専門の罠に陥りやすいということも意味している。あまりに狭い専門領域にこだわるがゆえに、素人でもわかる間違いに気が付かなかったり、原理に反した研究をしている場合がよくある。そして、学術出版など学術研究を支える仕組みに関心を持ったり、その活動に積極的に参加している研究者は、ごく一部である。他の研究者は与えられた学術出版の仕組みの中で、自らの業績を最大化することに集中している。それでも研究で生活しているプロの研究者は、学術ジャーナルの流れや傾向に敏感であり、皮膚感覚で世界の動向を受け取っている。一方、学術情報を分析する研究者や図書館関係者は、現場のぴりぴりした感覚から一定の距離を置くがゆえに、ある程度客観的な見方が可能となる。両者は、どちらが正しいという関係ではない。ダイナミックに変化する学術情報生産から流通の全体を捉えるためには、両者が腹蔵なく正直に意見交換し、我が国の研究レベルを高めるための方策を一緒に考える必要がある。正しい意見とは何か。それは研究活動が一層活発化するかどうかで決まる。第三者的に冷静な評価を行った結果、我が国の研究活動がスポイルされるようでは、その評価は間違っているといわざるを得ない。正しいがゆえに、我が国が滅んでいくという分析などしても何の役にも立たない。学術活動を活発化させるための方策が必要である。なぜなら、資源の少ない我が国が今後とも文化国家として成立するためには、学術活動を通じた基礎体力を増強する以外にはないからで、学会と図書館が協力して解決策を探っている姿勢がなによりも重要である。

 


参考文献
1. 植田憲一. 学会とビジネスモデル. 人工知能学会誌. (2011年11月号掲載予定)
2. 植田憲一. 学会運営にビジネスモデルを. 日本物理学会誌. 2010, vol. 65, no. 6, p. 399.