ignotum perignotius

学術情報センター教授

井上 如

 鎖国というとすぐオランダは別だ,だから幕末に蘭学が栄えたと思うのは早とちりで,中国船も長崎に来て交易をした。その荷の中には中国の書籍も含まれていて,従って蘭学と漢学とは並んで栄えた,というより,オランダ語よりも漢文の読める人の方がまだしも多かったろうし,西洋は日本より先に中国に進出していたから,西洋のことも漢文でより多くを知ったのだ。それが幕末/明治初期の知的環境である。鎖国とは要するに,日本人が外国に出て行くことを禁じたのであって,外国の文物が国内へ入ってくるときは,キリスト教との関係が厳しく吟味されたに過ぎない。鎖国というのは日本国内から見たときの表現で,国外から見れば単に一定の交易条件下の国である。特に知的 trade imbalanceは今も健在だ。そうでないと,日本人が今もみずからを閉ざしていることに外国に行くと気付くが,帰国するととたんにそれが意識から消える,私たちの半鎖国的心性を説明できないことになる。

 以上の所説は,関西大学の大庭脩教授が「江戸時代における唐船持渡書の研究」をはじめとする一連の研究成果を踏まえて書いたエッセイ「江戸時代の日中秘話」に負うところが多い。特に上記「研究」は,中国船が舶載した書物の日本にとっての情報源としての重要さを明らかにした,第一級のドキュメンテーションである。日本人の知識が基本的にブッキッシュであることを首肯せしめて余すところがない。その大庭教授の研究によれば,唐船が長崎へ舶載した文物のうち,書物は帯来書目というリストを付けて書物改に廻される。書物改はおおむね向井家の世襲であるが,兵書・切支丹関係の書物だけでなく,日本に関する記載のある書物,新渡書(始めて舶載された書物),そのほか珍しい本なら何でも報告する義務があったという。積み荷の書物はいわゆる見計らいもあれば注文もあったらしい。書物改の後,注文主のない書物は商品として長崎会所に移管され,「値組」が行われ,販売目録が作られ,「荷見せ」,入札・落札を経て,小売商人の手に渡り,更に各地へ送られる。一方御用物といって,幕府御用の書物は扱いが別で,紅葉山文庫は御文庫御用,昌平坂学問所は学問所御用という大口の需要であった。今日我が国曹フ大学図書館などが丸善や紀伊国屋など洋書取次店から書物を受け入れることのルーツはこのへんにあるかも知れない。

 紅葉山文庫も,昌平坂学問所も儒学が基本だが,一方「蕃書調所」は江戸幕府の洋学研究教育機関である。いくたびかの名称変更の末に東京開成学校となり,やがて東京医学校と合併して東京大学となる前身機関の一つである。安政三年に九段下に創設され,万延元年に小川町の狭い建囎ィに閉じこめられたが,文久三年五月,一ツ橋門外の護持院原(現在の学士会館/興和一ツ橋ビルの辺)に新築された広大な建物に移転した。「蕃書調所」は設立直前までもっぱら「洋学所」という名称で呼ばれていた。それが設立時に急遽「蕃書調所」となったのには,上記に述べた書物改という観念が当時の洋学者の頭の中にすら下地としてあったからではないか。「蕃書調所」はやがて「洋書調所」となり,「開成所」となってゆく。「蕃書調所」が実は「洋学所」であったことは,面白いことに図書館の蔵書を見ると分かる。

 東京大学附属図書館の初期の蔵書状況を「東京大学百年史部局史第二十六編附属図書館」から拾うと,「蕃書調所」の蔵書は,箕作秋坪蔵の「蕃書調所書籍目録写」(安政五,六年)に図書689点,1,940冊,「東京開成学校文庫書目英書之部」(明治八年)には845点,1万869冊,東京大学になってからの明治十年三月印行の「東京大学法学部理学部文学部図書館和漢図書目録」に,28,342冊に対し,記入数は約二千点とある。要するに外国書を中心におびただしい複本である。

 更に一橋大学の濫觴である商法講習所の場合,明治九年五月,東京会議所から東京府へ移管されたときの書類の中に,書籍に関する記述として,ヘボン辞書一本,英和辞書一本,帳合法二十四本,算術書二十六本,習字手本一本などとあって,貸与する教科書を複本で備えておくことが図書館の機能であったことが分かる。また,「講習所創設当初は教科書はほとんど原書で,一般には入手が容易でなく,生徒用も助教授高木貞作の取り計らいでニューヨークへ直接注文し,原価で払い下げ,また[それすら]購入がむずかしい者には,損料を払わして貸し与えていた」とのことである(一橋大学図書館史 昭和50年  p.6)。〈ヘボン辞書一本〉という記述は, 大阪適塾でオランダ語の書物を読むために,たった一点しかないズーフハルマの辞書(書写したコピー)を引こうとして,適塾の二階のあのズーフハルマの部屋に真夜中によじ登っていったときの福沢諭吉の姿を彷彿させるではないか。

 東京大学附属図書館も一橋大学附属図書館も神田の生まれだが,その後,日本を代表する立派な図書館に発展した。しかしこれらを含むいくつかの例が有りながら,不思議なことに,リサーチ・ライブラリーというコンセプトが日本にはない。従ってそれらを束ねる図書館協会もない。例えば米国には書誌ユティリティが大きく二つあって,一つはリサーチ・ライブラリーに対応する RLIN であり,もう一つは大学/公共図書館に対応する OCLC であるが,日本にこうしたことはあり得ない。リサーチ・ライブラリーというコンセプトが無い理由は実は簡単で,日本にはコレクションはあるがコレクターがいないからだ。出来上がったコレクションの寄贈を受けたり,買い取ったりした結果のコレクションだからだ。コレクターが居ないというのが言い過ぎなら,日本のコレクターは,明治以後は,お茶の水に静嘉堂文庫を作った岩崎男爵に代表されるように,市井人がその中心ということになってしまったのではないか。

 学術情報センターがやがて移転して行く先は神田一ツ橋であるが,そこに神田学会という,「街おこし」にはまず自分達の住む地域を知る必要があるとの自覚から組織された地元の人達のグループがある。かなり前のことだが,来て話しをするように依頼を受けた。地縁は大切だと思い,喜んで引き受けて聞いて貰ったのが,実は上記の話しである。旧神田区内および麹町区内には,日本の図書館の原型が一通り存在した。館種の区別はもちろんのこと,教育/学習支援と,調査/研究支援という,図書館の二大機能区分すらまだ無かったころの,おそろしくエネルギーに満ちた,幕末/明治初期の日本の図書館のダイナミックな様子はこの近辺の図書館もどきを調べるだけで窺い知ることが出来る。幻の「日英図書館(英書図書館)」や,世界にここしかない男子禁制の「お茶の水図書館」の誕生など,最近でもそのエネルギーは衰えていない,というのが話しの趣旨であったが,評判はもう一つであった。〈大学図書館に対する目録所在情報サービスが地元古書店に与える影響如何〉というのが本当は聞きたかったことだと後でいわれ,なるほどと思い,おのれの情報感度の鈍さを改めて思い知らされたことであった。


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